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ルーツ探しで見つけた答えは「自分を表すものは“ひとつ”でなくていい」

世界で活躍するジャグラー・ちゃんへん.さんの「国籍とは何か」を巡る葛藤の軌跡

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

 ちゃんへん.さんは父親を幼い頃に亡くし、昌枝さんが祇園でクラブを営みながらちゃんへん.さんを育てていた。夕方に家を出て、明け方に帰ってくるという生活でも、朝食と夕食は必ず用意してくれた。子どもながらに母のそうしたところに愛情を感じ、裏切りたくないという思いがあった。

 だから、家に帰れば「楽しい学校生活を送っている自分」を演じた。顔を合わせるのも辛いときは、夕方に母が店に向かうまでわざと外で待っていた。「土日で学校がないときは、“友達と遊んでくる”と、いもしない友達を作り上げて、一人で6時間以上公園で過ごしたりしていたこともあります。そんな毎日の繰り返しでした」

「強さを見せたかったらルールのある世界で闘え」

 ある時、校舎の4階から、ちゃんへん.さんめがけて石がぎっしり詰まったバケツを6年生が落としてきたことがあった。間一髪直撃は免れたものの、偶然目撃した先生から校長先生に伝わり、6年生たちと一緒に校長室に呼ばれた。

 校長先生は6年生たちに向かって、「朝鮮人をいじめるな」と諭そうとした。そんな“善意の言葉“が、ちゃんへん.さんを深く傷つけることになる。「あの一言で、自分は周りの人とは全く同じ立場ではないということを突き付けられたようでした」

 “人と違う”と“一緒じゃない”は、ちゃんへん.さんの中で大きく異なるのだという。「何ひとつ共有できるものがないんだ、根本的に自分は違う存在なんだ、もっといえば“人間じゃないんだ”ってその時、思わされたんです」

 そこに、学校から知らせを受けた母の昌枝さんが駆けつけた。昌枝さんはいじめた6年生たちではなく、校長先生に向かってこう言い放った。

 「何でいじめがなくならへんのか知ってんやけど、教えたろか。あんなおもろいもんがなくなるわけないやろ」。反論しようとする校長先生をよそに、昌枝さんは続けた。「この学校には子どもたちにとって、いじめよりおもろいもんがないからや。お前、学校のトップやったら、いじめよりおもろいもん教えたれ」

 その言葉はちゃんへん.さん自身にも、そしていじめていた6年生たちにも刺さったようだ。昌枝さんは6年生たちに向かってこうも語った。「強さを見せたかったら、ルールのある世界で闘え。ルールのない世界で闘っても、それはただの弱い者いじめや」。いじめのリーダー格だった6年生のひとりは、それをきっかけに空手を習い始めたそうだ。

ハイパーヨーヨーで一目置かれる存在に

 大きな転機が訪れたのは、中学生の時だった。

ちゃんへん.さん
 雑誌の懸賞でハイパーヨーヨーが当たり、その後ブームが到来。たまたま人より早く始めていたこともあり、クラスの中でも一目置かれるほど上手くなっていた。それまで自分を無視し続けていた同級生たちが、「それどうやるの?」と話しかけてくるようになった。

 その後も周りに負けまいとひたすら練習を重ね、地域で断トツの腕前になった。「努力する楽しさをこの時に学んだと思います。技ができると嬉しいし、自分が成長していると実感できる」

 大会に出て目覚ましい成績をおさめていく一方で、どこか心にひっかかりもあった。「大会で優勝しても、人が決めた“100点”をとっているだけ。決められた技の決められた点数で測られる。そんな“100点”をとるより、自分が決めたベストを出す方が楽しいんじゃないか」。そう考えるようになっていた。

 数年ぶりに母親と買い物に出たときのことだった。時間を持て余し、ふらりと立ち寄ったジャグリング・ショップで、米国の伝説的ジャグラー、アンソニー・ガットの映像を目にし、圧倒された。見たことのない技を鮮やかに繰り広げ、自分の限界に近づく努力を重ねる姿に、憧れるようになった。

 この出会いが、パフォーマーを志していくきっかけとなる。ただ、世界規模の大会で活躍するために、どうしても立ちはだかるものがあった。「国籍」という壁だった。

「息子に韓国籍をとらせてください」と土下座した母

 ここで「在日朝鮮人」と呼ばれる方々の歩みについて触れておきたい。

 朝鮮半島出身の人々は、日本の植民地時代には「日本国籍」とされていたものの、終戦から数年後、今度は一方的に日本国籍を奪われ、特定の国籍を持たない「朝鮮人」として扱われることになってしまった。さらに朝鮮半島は南北二つの国に引き裂かれ、1965年、日本は南側の韓国とのみ国交を結んだ。

 その際に韓国籍を取得した人もいれば、「朝鮮人」、「朝鮮籍」のままでいることを選んだ人たちもいた。「朝鮮籍」=「北朝鮮籍」と勘違いされることもあるが、日本が国として認めていない北朝鮮の国籍を、日本に暮らす人が取得することは難しい。

 世界へと飛び出すため、「韓国籍を取りたい」というちゃんへん.さんを、母の昌枝さんは祖父母のところに連れて行った。そして号泣しながら祖母に土下座し、おでこを床に擦り付けながら、こう叫んだ。「息子に韓国籍をとらせてください!」

 祖母はちゃんへん.さんの目の前で、昌枝さんを蹴り飛ばした。蹴られ続けながらも昌枝さんは、「息子の夢のためなんです!一生のお願いです!」と、泣きながら繰り返した。やがて少し冷静になった祖母が、今度はちゃんへん.さんに向かってこう叫んだ。

 「お前!!韓国国籍を取るとかぬかしてんのか!!」。そして更に大声で、こう続けた。「お前は南北分断を認めるのか!!」

 米国とソ連が自分たちの故郷を分断したことを、そして多くの人々が犠牲となった朝鮮戦争を、お前は認めるのかと、祖母はちゃんへん.さんに突きつけたのだ。どちらかの国を選ぶということは、分断を認めることなのだと、彼女は目に涙をためて叫んだ。

 「お前は!戦争という手段を使って一部の人間だけが幸せになろうとする奴らを認めるのか!」

衝撃を受けた“南北分断を認めるのか”という一言

 静かにテレビを観ていたはずの祖父が急に立ち上がった。

 「俺たちの国は50年前に国が分けられ、兄弟や家族ともバラバラに引き裂かれ、戦争が始まってもうめちゃくちゃになった」。日ごろは無口な祖父が口を開いたことに、ちゃんへん.さんは驚いた。

 「俺の夢は今も昔も変わってない!祖国がまたひとつになった時に、バラバラになった家族とまた一緒に暮らすことや! 俺の夢は叶わへんかもしれん。でも、こいつの夢は国籍を取るだけでチャレンジできるんや!」

 祖父母はともに10代半ばに、様々な事情で日本に渡ってきた。朝鮮半島から出る時、祖母の持ち物は家の鍵と飴玉数個だけだったそうだ。後から来るはずの母と一緒に食べようと、空腹を我慢して飴を食べずにいたという。

 日本が敗戦を迎え、故郷に帰ろうという時に朝鮮戦争が起きてしまった。持ち出した「鍵」を再び使う日は、ついに訪れなかった。それでもこの日本で生き抜き、子どもを育ててきた。

 「韓国籍をとるということに、どんな意味合いがあるかなんて、それまで意識したことはなかったんです。どうして自分が“朝鮮人”としていじめられるのか知りたくて、図書館で本を読んだり、それなりに学んできたつもりでした。でも、一人ひとりの生の思いは本には載っていない。だからこそ、“お前、南北分断を認めるのか”という祖母の一言は衝撃でした」

「自分は何人なのだろう」

 葛藤は国籍のことだけではない。むしろこれが、葛藤の始まりでもあったのかもしれない。

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