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ルーツ探しで見つけた答えは「自分を表すものは“ひとつ”でなくていい」

世界で活躍するジャグラー・ちゃんへん.さんの「国籍とは何か」を巡る葛藤の軌跡

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

周囲とは何かが違う

拡大生まれて100日目のちゃんへん.さん
 昌枝さんには、ちゃんへん.さんを朝鮮学校に通わせるという選択肢はなかったようだ。昌枝さんが通っていた当時の朝鮮学校は、今よりもずっと厳しく、日本語は固く禁じられていた。中学生の時、創立の周年行事で、大好きだった山口百恵さんの「イミテーション・ゴールド」を思い切り日本語で歌った昌枝さんは、学校からひどく怒られたという。

 それがきっかけで、「百恵ちゃんのよさが分からない学校なんて行ってられるか」と、学校をやめてしまった。その頃は、偏見の目が今以上に厳しく向けられていたこともあり、朝鮮学校卒業後の進路は限られていた。ちゃんへん.さんを「外国の学校」に進ませたのは、彼の未来を狭めたくないという思いもあったのかもしれない。

 「周囲と何かが違う」と気づきはじめたのは、小学校に入学してからだった。

 「家の中では、朝鮮語と日本語を混ぜて話していたし、おじいちゃん、おばあちゃんは朝鮮語だけで話すから、僕にはわからない言葉もある。でも、“そんなものなんだろう”というぐらいにとらえていました。小さかったから“外国語”という認識もなかったし、何だか知らない言葉を喋ってるな、知らない言葉があるんだな、くらいに思っていました」

 ところが、小学校に入ると、「自分の喋(しゃべ)る言葉」を知らない人ばかりに囲まれることになる。普通に話しているつもりでも、「え、今なんて言ったの?」と何度も聞き返された。「あれ?同世代に通じない言葉がある…」。日本語と朝鮮語が、明確に違うものだと意識するようになったのはこの頃だった。

殴られたり無視されたりの小学校時代

 通っていた小学校には、そんな「違い」を、暴力の口実にする上級生たちがいた。身体的暴力は3、4年生の時にエスカレートし、6年生からは「入国審査だ」と殴られたこともあった。同級生たちは、「朝鮮人だから近づくな」といわんばかりに、ちゃんへん.さんを無視し続けた。

 「これは人によってとらえ方が違うかもしれませんが、当時はボコボコにされるぐらいなら、教室で無視される方がまだましだ、と思っていました」。それほどまでに、過酷な暴力が続いた。それでも、不登校にはならなかった。母親にばれたくない、悲しませたくない気持ちが強かったからだ。

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筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。写真絵本に『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)、著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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