【4】ナショナリズム ドイツとは何か/ニュルンベルク③ プロパガンダの跡
2020年06月11日
だが、私が2月10日の午前に訪れて見たその態勢が整ったのは、実は今世紀になってからだ。(「ナチス最大の遺構にあぜん 『第三帝国』プロパガンダの拠点を歩く」参照)
ナチズムへの反省から戦後を歩み始め、国のあり方を探り続けるドイツ。とりわけ、1990年の再統一まで冷戦下で東西に分断されていた一方の西ドイツでは、ナチズムを生んでしまった民主主義をいかに陶冶(とうや)するかが問われてきた。
その象徴と言えるニュルンベルクで、なぜ戦前に向き合うまでにそれほど時間がかかったのか。私をガイドしたNPO「みんなの歴史」のワーナー・フィーデラーさん(61)に尋ねてみた。
地元出身のフィーデラーさんは、幼い頃にこの公園で遊んだ1960年代の話から始めた。
公園は戦後にニュルンベルク市の所管に戻ったが、ナチスの遺構は放置されていた。フィーデラーさんはサッカーをしによく訪れた。
ツェペリン・フィールドという広場では駐留米軍の兵士らがアメリカン・フットボールをしていた。造りかけの円形闘技場のような廃墟は「議事堂」と呼ばれていたが、それが何なのかよくわからなかった。
そこから、今年で100歳になる母、マリアさんを中心とした家族の話が始まった。
「母は1920年に生まれ、最初の夫と息子二人、娘一人とケルン(ドイツ西部の大都市)のアパートに住んでいた。第2次大戦で夫と息子二人を失い、家も空襲で破壊された。母は戦後に再婚し、ニュルンベルクでさらに三人の子をもうけ、その末っ子が58年生まれの私になる。再婚相手の父は07年生まれで、やはり戦争で負傷していた」
「戦争に翻弄された典型的な家族のストーリーだね。でも母は本当にタフだよ。戦争でほとんどを失っても、6人も産んで100年も生き抜くんだから」とフィーデラーさんは言う。
ガイドとしてプライベートな話にも慣れているのだろうか。その気さくさに甘え、私は突っ込んで聞いてみた。
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