戦争体験を語り継ぐという形での平和学習や報道はいよいよ限界
2020年05月31日
2020年は戦後75年にあたる。これは何を意味するか?
端的にいえば、戦争体験者が残り少なくなったということだ。総務省の2018年10月1日時点のデータで、アジア太平洋戦争を体験していない戦後生まれは、日本の人口の83.6%。現在はもっと増えているだろう。
ご存命でも、戦争体験を語れるかどうかはまた別だ。沖縄戦の体験者の平均年齢は約90歳。まず体力的に難しい方が多い。現在、学校の平和学習の場で沖縄戦の体験を語る方々のほとんどは、当時10歳以下。沖縄戦体験を語り継ぐという形での平和学習や報道が、いずれ限界を迎えることは目に見えている。
体験者の語りに耳を傾けること以外の方法で、沖縄戦を知らない世代が歴史を引き継いでいくには、どうすればよいのか――。本稿では、沖縄での日常生活や勤務先の授業をまじえ、その可能性を探ってみたい。
米空軍嘉手納基地の入口を背に、嘉手納町水釜通りから比謝川を越えて読谷村に入り、住宅街の奥へ奥へと入っていくと、渡具知ビーチの手前に米兵の住む家が立ち並んでいる。Yナンバーの車が何台も道端に停めてあるので、すぐに分かる。
1945年4月1日、米軍は読谷村の渡具知海岸から沖縄島に上陸。空襲、艦砲射撃に続く沖縄戦の地上戦が始まる。336年前の同じ日、琉球王国へと攻め込んだ薩摩藩の兵たちも、同じ海岸から上陸。比謝川を渡って浦添城に火をかけ、琉球国王の住まう首里になだれこんだ。米軍も同じく比謝川を越え、浦添城一帯での激戦をへて、日本軍司令部のある首里めざして南下していく。
渡具知ビーチから海岸沿いに泊城公園が整備されており、海岸から緑豊かな高台へと登っていける。周囲の海岸線を一望できる高台の一角に、米軍上陸の地碑があるというので行ってみて驚いた。このとき、新型コロナウイルスの感染拡大で、外出自粛が勧告されていた。しかし、日本人の若者4人が、米軍上陸の地碑の横でバーベキューをしている。
人気のない公園は、周囲の住宅から多少距離があり、おあつらえむきに屋根つきのテーブルとベンチが設置されている上、木々が人の姿を隠してくれるので、気持ちは分からなくもない。ただし、石造りの碑の台に乗って、炭をバーナーであぶるのはいただけない。どいてもらった。
沖縄戦で亡くなった読谷村民は2946人。その約四分の一にあたる740人が、米軍が上陸した4月に死んでいる。上陸前の艦砲射撃や戦闘に巻き込まれ、また深さ10メートルほどのV字型をした谷の底のチビチリガマ(洞窟)で2日、85人の人々が強制集団死した。
米軍上陸の地碑へと歩いて来た道を戻ろうとすると、目の前を大型犬と散歩する米兵が通り過ぎていった。
米軍が、沖縄戦で渡具知海岸から上陸したのは、約1.6キロメートル先にある、嘉手納と読谷の日本軍飛行場を確保するためだった。米軍は、日本軍の反撃や抵抗を受けることなく飛行場をただちに占領。壊されていた滑走路の修理も、妨害されることなく終える。二つの飛行場は、日本本土への空襲の出撃拠点となる。
日本軍に足止めされることなく、米軍の一部は読谷から島内を東に横切り、翌2日には中城湾一帯を見渡せる高台を確保した。沖縄島の東海岸沿いには、琉球王国以前から、首里城を起点に中城を通って勝連城へと向かう街道があった。つまり、中城一帯は首里に南下するための要所なのだ。
ゼミの学生を連れてキシマコノ嶷まで登った際、読谷に上陸した米軍がたった一日で中城まで到達し、5日にはここにひそむ150人の日本軍と戦闘になったと言うと、学生は驚いたようだった。「一体どんな移動手段で?」「徒歩と戦車」。
嘉手納基地や普天間飛行場などの米軍基地を大きく迂回しながら、島内を移動しなければいけない戦後の沖縄県民には、直線距離で島を東西に横切るなど想像もつかないのだ。
なおも首をひねる学生に、日本軍が首里防衛に徹したため、中城までは米軍の進軍が容易だったことも説明すると、一人がぽつりとつぶやいた。「日本軍は兵士を捨て駒に……」
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