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戦後75年。沖縄戦を知らない若者に歴史をどう引き継ぐか(上)

戦争体験を語り継ぐという形での平和学習や報道はいよいよ限界

山本章子 琉球大学准教授

中城~首里防衛戦の開始

 米軍が、沖縄戦で渡具知海岸から上陸したのは、約1.6キロメートル先にある、嘉手納と読谷の日本軍飛行場を確保するためだった。米軍は、日本軍の反撃や抵抗を受けることなく飛行場をただちに占領。壊されていた滑走路の修理も、妨害されることなく終える。二つの飛行場は、日本本土への空襲の出撃拠点となる。

拡大キシマコノ嶽=2020年4月23日(山本章子撮影)
 沖縄戦における日本軍の目的は、米軍に勝つことではなかった。長期戦で米軍を消耗させ、本土上陸を遅らせることだった。沖縄中の住民を強制動員し、それでも兵力不足を補えない日本軍は、司令部のある首里とその周辺の丘陵地帯に主な兵力を集中。米軍の進軍を阻止せず、迎え撃つこともせず、米軍が接近するまで待って抵抗する作戦をとる。

 日本軍に足止めされることなく、米軍の一部は読谷から島内を東に横切り、翌2日には中城湾一帯を見渡せる高台を確保した。沖縄島の東海岸沿いには、琉球王国以前から、首里城を起点に中城を通って勝連城へと向かう街道があった。つまり、中城一帯は首里に南下するための要所なのだ。

拡大キシマコノ嶽
 街道の一部は現在でも残り、琉球大学の裏から中城城址まで歩ける石畳の「ハンタ道」として整備されている。海岸沿いの高台をひたすら歩き、南上原をぬけて北上原の山の中に入っていくと、「キシマコノ嶷」と呼ばれる地元住民の聖地がある。沖縄戦の際、日本軍はこの場所の地形を利用して、機関銃などを備えつけ、壕やトンネルをつくり、監視哨を設けた。

 ゼミの学生を連れてキシマコノ嶷まで登った際、読谷に上陸した米軍がたった一日で中城まで到達し、5日にはここにひそむ150人の日本軍と戦闘になったと言うと、学生は驚いたようだった。「一体どんな移動手段で?」「徒歩と戦車」。

 嘉手納基地や普天間飛行場などの米軍基地を大きく迂回しながら、島内を移動しなければいけない戦後の沖縄県民には、直線距離で島を東西に横切るなど想像もつかないのだ。

 なおも首をひねる学生に、日本軍が首里防衛に徹したため、中城までは米軍の進軍が容易だったことも説明すると、一人がぽつりとつぶやいた。「日本軍は兵士を捨て駒に……」

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筆者

山本章子

山本章子(やまもと・あきこ) 琉球大学准教授

1979年北海道生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。2020年4月から現職。著書に『米国と日米安保条約改定ー沖縄・基地・同盟』(吉田書店、2017年)、『米国アウトサイダー大統領ー世界を揺さぶる「異端」の政治家たち』(朝日選書、2017年)、『日米地位協定ー在日米軍と「同盟」の70年』(中公新書、2019年)など。

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