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「非移動」が生む「東京一極集中」の是正と「価値の多様化」

ウイルスが我々に問いかけているもの(5)「移動」

花田吉隆 元防衛大学校教授

マスク姿で通勤する人たち=2020年6月1日、東京都中央区、西畑志朗撮影

 我々は、これまで「移動」を問うことはなかった。それはごく当たり前のことであり、現代人は、所狭し、と世界を股にかけ動き回るものと考えていた。それこそが活動であり、旺盛な活動が高い成果を生むと信じていた。ウイルスは、その「移動」を否定した。「移動」を失った現代社会を待っているものは何か。

「移動」の拡大により活動の場を広げる

 産業革命以降、人は「移動」の拡大により活動の場を広げてきた。

 産業革命以前、人は馬で移動した。モンゴルはそれで世界を制覇したが、所詮(しょせん)、馬の活動範囲は限定的でしかない。やがて蒸気機関が発明され、それを利用した蒸気船が生まれた。蒸気船の発明は、極東で、日本がペリーに恐れをなし明治維新を断行、近代化路線を進むとの波状効果も生んだ。その後、エネルギーの石炭から石油への転換と共に車や飛行機が発明され、人の移動範囲は飛躍的に高まっていく。人は世界を股にかけ活動するようになっていった。

 一方、逆説的ながら、産業革命の「移動」は人を「都市へ移動」させることでもあった。産業化の過程で、人は、工場という機能を発見し、人と材料を一つの工場に集約し効率を高めることを知ったが、そういう工場が集中したのが都市だった。かくて、人は都市という極小空間に閉じ込められ、その底辺に「滞留」していく。人が滞留する都市は、衛生上問題であるばかりか、居住空間も限られ、多くの者が狭いところにひしめき合う非人間的な空間だった。都市は、過酷な工場労働と相まって現代の社会問題の元凶となっていく。

 日本は、この都市化が極度に発達した国だ。経済、教育、メディア、文化のあらゆるものが東京を目指し集まってくる。地方は東京の決定を受け入れはするが、自らの主張を発信することはない。単なる受け身の存在に甘んじている。しかし世界を見渡せば、こういう東京が国際標準であるわけではない。

 例えばドイツ。首都はベルリンだが、金融はフランクフルト、産業はバイエルン、メディアはハンブルク、連邦憲法裁判所はカールスルーエと、全国にいくつもの「極」を抱える。国は連邦制で、中央は全権限を握ってはいない。全国は、いわば多様な「領域」から構成されている。

 これに対し、フランスは中央集権だ。「すべての道は(ローマならぬ)パリにつながる」。だが日本と違い、地方には豊かな文化が残存する。ブルゴーニュやボルドーなしにフランスワインは語れない。

群れることを良しとする日本人

 日本の東京一極集中は、産業化の産物だが、日本人が「混雑」を良しとした面がないわけではない。元来、人は人との距離を一定程度保つことにより快適さを得る。日本で、他人の侵入をものともしない生活空間が形作られているのは不思議と言わざるを得ない。今はともかく、一昔前まで、隣家の話し声は当然のように耳に入ってきた。通勤では、人と人とが文字通り肌を接して空間を共有する。

 誰もがどうしようもないと思い、諦めてはいるが、しかし、諦めているだけというわけでもない。人々は、仕事の後、狭い路地の一杯飲み屋に好んでたむろする。ラーメン屋は数席しかないカウンターだけで、隣の客とは密着だ。仕事場は、依然、大部屋の方が風通しが良いとされ、個室はタコつぼ化して良くないという。

 つまり、日本人は、群れることを良しとするところがある。「分離」は非人間的で、「ごちゃまぜ」こそが、人間的と考えている節がある。人と人は、肌を触れ合ってこそ絆を保てる。

 この「ごちゃまぜ文化」はアジア特有だ。アジアは、どこに行っても「混雑」し、互いの間の「仕切り」がない。それは、「アジア的混沌」とも言われ、かつては後進性の象徴ともされたが、世界有数の成長センターとなった今も、アジア的混沌が是正される兆しはない。我々は欧州と違い「仕切る文化」ではない。

まず通勤電車の改善を

 そういう「非仕切り文化」「接触文化」を、新型コロナウイルスが容赦なく否定した。互いをアクリル板で「仕切り」、日常を「非接触」にせよという。3密を回避し、互いが距離を保ち生活せよという。しかし、この過密都市東京で、そもそも3密回避が可能か。政府は3密回避を言うなら、まず通勤電車をどうかすべきでないか。

 しかし、

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