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「歩く人が多くなれば、それが道になる」 天安門事件31年・香港の現場から

ともに歩く者は世界に広がっている。香港人は決して泣き寝入りはしないだろう

劉燕子 現代中国文学者・作家・日中翻訳家

 5月28日、中国の第13期全国人民代表大会(全人代)で、香港に関する「国家安全法」を制定する方針が採択された。それは実質的に香港市民の基本的人権をさらに制約することになり、しかも香港立法院での議論がなく、北京で決められたのであった。このため、前日の27日、新型コロナ禍で9人以上の集会は禁止にもかかわらず、抗議デモが自発的に起き、繁華街では警官隊と衝突し、約400人も拘束された。

 確かに「国家安全法」制定は確実で、対策は手詰まりのような局面もあるが、抗議活動は粘り強く続いている。ところが、香港人には機敏な商売人というイメージが往々にして付きまとっており、このような状況はそぐわない。この点を切り口に、何故、香港人は抗議するのか、その理由を述べていこう。

天安門事件の衝撃

天安門広場の人民英雄記念碑から学生を排除した戒厳軍の兵士たち=1989年6月4日、北京

 香港は「亡命者の天国」と呼ばれる。中華人民共和国が成立すると大飢饉や過酷な政治運動を逃れる亡命者や密入国者が後を絶たなかった。命からがら香港にたどり着いた者は懸命に働かねばならなかった。血縁・地縁から切り離されたため、頼れるのはお金しかなかった。同時に、暴力の恐ろしさを骨身にしみて体験し、自由は何ものにも代えられないと痛感していた。

 台湾独立運動に関わり香港に亡命した直木賞作家で経営コンサルタントの邱永漢は代表作『香港』で亡命者には「故郷もなければ、道徳もない」、「金だけだ。金だけがあてになる唯一のものだ」と述べる。

 また、香港人の特質について、著名な台湾人作家・龍應台は互いに遊離しながら自己形成するネットワークが無数に存在する「分衆」ととらえる(編訳『永遠の時の流れに』「訳者あとがき」)。香港社会は一枚岩のように均質ではなく、むしろ香港人は集団の行動に気恥ずかしささえ覚えるのである。まして「大台(主催のお歴々が並ぶ大舞台)」からのイデオロギー的な「鶴の一声」による大衆運動など毛嫌いする者が多い。まさに香港人の抗議行動と中国本土の党が発動する大衆運動は本質的に異なる。

 それでもまずまずの暮らしができれば、街頭に出て抗議することはない。つまり、香港人は脅威をひしひしと感じて安心できないのである。特に天安門事件の衝撃は激烈であった。

 1989年、天安門民主運動が進展すると香港人は声援を送るだけでなく、100万人規模のデモ行進で支持を表明し、またカンパを募り物的支援も行った。しかし、6月4日、流血の天安門事件が起き、民主化への希望は打ち砕かれた。それに伴い1985年の中英共同声明(返還の国際公約)への信頼も損なわれた。

 だが、支援組織はただちに活動を転換し、弾圧を逃れる学生リーダーや市民たち約400人を救援した(イエローバード作戦)。

歴史の封殺に抗して:一進一退

 香港では毎年6月4日にビクトリア公園で犠牲者の追悼集会が開かれ、天安門事件の封殺に抗するとともに自由を守り続けてきた。のちにノーベル平和賞を受賞した劉暁波(1955ー2017)は、2001年の天安門事件12周年に、次のように述べた(「幸いに香港という自由な土地がある」)。

 「数百万人の人口の香港で、四万八千人がキャンドルに火を灯し、追悼記念集会に参加した。だが、世界で最も人口の多い中国大陸では

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