藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)
1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【10】ナショナリズム ドイツとは何か/ベルリン① 現代史凝縮の地
「翔んで埼玉」並みのフィクションに、しばしおつきあいいただきたい。
日本の首都、東京は数奇な運命をたどってきた。
敗戦後の日本は、世界が東西に分かれ対立を始めたあおりで東日本と西日本に分裂。東京は東日本にあったが、西日本にとっても大事な都市だったのでこれも東西に分かれた。西東京は西日本に属し、東日本の中で離れ小島のようになった。
東日本と西日本の関係が険悪になると、東日本は西東京の周りを壁で囲ってしまった。「東京の壁」だ。
だが、世界での東西の対立が緩んでくると、西東京に行きたい東東京の人たちが壁を突破。これを機に東日本と西日本は再び一つになった。
あえてこんな作り話をしたのは、国民がまとまろうとする動きや気持ちとしてのナショナリズムをドイツについて考えるこの連載で、ドイツの現代史が凝縮されたベルリンの話を始めるにあたり、より多くの読者にこの都市を身近に感じていただきたかったからだ。
戦後のベルリンをごくごく簡単に紹介すれば、この作り話の「日本」を「ドイツ」に、「東京」を「ベルリン」に置き換えた形になる。今年の2月12日、私は取材の旅でドイツ鉄道の特急に乗り、ミュンヘンからニュルンベルク経由でベルリンへ向かっていた。
日本もドイツも第二次大戦の敗戦国だが、最終局面の展開によって、連合国による戦後の占領が日本では米国中心、ドイツでは米英仏とソ連による分割という形になった。その状態が米ソ冷戦で固定し、日本は米国を中心とする西側に含まれ、ドイツは東西に分断された。
日本がもしドイツのようになっていたら、東京はどうなっただろう。実際ベルリンはどんな街なのだろう。ナチス・ドイツの首都、戦後の分断、そして壁の崩壊を機にドイツが再統一してから30年になる。
ベルリンはいまドイツの重要都市として16州の一つをなし、人口361万人、面積892平方キロ。戦後ドイツが冷戦により1949年に東西に分かれてそれぞれ独立した時、東ドイツ側にあったベルリンも東西に分断された。
西ドイツの飛び地になった西ベルリンを東ドイツは1961年に壁で包囲。全長160キロもあり、うち東ベルリンとの国境は45キロ、隣のブランデンブルク州との国境は115キロだった……。
と言ってもイメージがわかないかもしれない。鉄道でベルリンに向かう私の移動に沿って言えばこんな感じだ。
特急は西から東へ、つまり旧西ドイツから旧東ドイツの地域へと進んだ。ブランデンブルク州からかつてベルリンの壁があった線を越えてベルリン州に入ると、しばらくは旧西ベルリン、つまり旧西ドイツの飛び地だったところだ。特急を降りたベルリン中央駅はぎりぎりまだ旧西ドイツ側。そこからさらに東にある泊まり先へローカル線でひと駅進むと、またベルリンの壁があった線を越えて旧東ベルリン、つまり旧東ドイツの地域に戻る。
ベルリンに着いた翌日の2月13日午前、壁があったあたりを2時間ほど歩いた。