藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)
1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)
【13】ナショナリズム ドイツとは何か/ベルリン④ 現代史凝縮の地
「私は国境の架け橋になるのはもう慣れました」とヴォンデさんは切り出した。よくある比喩ではなく、故郷や家族のありようとして現実そのものの言葉だった。
出身はベルリンのさらに東、国境のナイセ川に臨むグーベン。ポーランド側には発音が似たグビンという街がある。第二次大戦でのドイツ敗戦によって、ポーランドとの国境が西方の「オーデル・ナイセ線」へと食い込み、かつてのグーベンはナイセ川で分断。「父はポーランド側、母はドイツ側の生まれでした」とヴォンデさんは振り返る。
この分断が、ドイツ降伏後にベルリン郊外であった米英ソ首脳によるポツダム会談の結果であることは、この連載の前々回「ポツダム会談に冷戦の予兆 欧州秩序の再構築めぐり揺れた戦勝国」で紹介した。焦点となったドイツ・ポーランド国境問題で、欧州へのソ連の影響力拡大を危ぶむ英国のチャーチルは、オーデル川と支流の東ナイセ川を主張。だが、より西へというソ連のスターリンの要求が通り、ドイツ側の一つの街だったグーベンを貫く西ナイセ川になったのだった。
米英仏ソに分割占領されたドイツは冷戦下の1949年、米英仏側の西ドイツ、ソ連側の東ドイツに分かれて独立。ヴォンデさんはその5年後に生まれる。ソ連を中心とする東側にともに属した東ドイツのグーベンとポーランドのグビンの間では住民は行き来できたので、子供のころ父とよくグビンの市場へ買い物に行ったという。
独ソ戦で破壊され、瓦礫(がれき)が残り、雑草が茂るグビンの街を歩きながら、父は「ここにはすてきなレストランがあった。ここはブドウ畑だった」と、かつての実家辺りの景色を懐かしんだ。その父の姿をヴォンデさんは、悲しげに思い起こした。
「当時は父の気持ちを理解するのはほとんど不可能で、ばかなこと言うなあと思いました。ひどい戦争を始めたのはドイツなんだから、ひどい扱いを受けるのはしょうがないと思った。東ドイツの教育の影響かもしれませんね」
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