【14】ナショナリズム ドイツとは何か/ベルリン⑤ 現代史凝縮の地
2020年08月20日
ベルリン市街を縫うローカル線が黄昏の高架を行く。線路の軋みが二階の窓越しに響いてくる。
かつての森鷗外の下宿にあるフンボルト大学の森鷗外記念館を2月14日に訪ね、日独の文化交流を支えてきた副館長のベアーテ・ヴォンデさん(65)の話を、前回に続き紹介する。冷戦が始まって間もない1954年、東ドイツのポーランド国境の街に生まれてからの半生だ。
戦後の西ドイツでは、ナチス時代の直視を避ける親と、向き合おうとする子の世代間の葛藤があった。東ドイツでも形は違えど、ナチズムからドイツを解放した共産主義という史観の下に教育を受けたヴォンデさんと、ドイツ軍兵士だった父の間に確執があった。
それをヴォンデさんが俯瞰(ふかん)できているのは現在の話だ。1973年に東ベルリン側にあったフンボルト大学に進んだ頃は、建国第一世代の私たちが東ドイツを導くのだ、という思いにあふれていた。
「戦後に新しい世界、新しい国をつくろうと、先へ先へと進んでいました。世界が平和になるための架け橋になろうと日本学科を選びましたが、入学の年に東ベルリンであった世界青年学生祭典は素晴らしかった。世界中から学生が集まり、一緒に平和の歌を歌いました」
世界青年学生祭典とは、戦後に共産主義や非同盟の諸国で数年ごとに開かれてきたものだ。東ドイツ政府は人が増えすぎるという理由で、祭典期間中に西ベルリン在住者の立ち入りを禁じた。1970年代には米ソが一時緊張緩和に向かい、東西両ドイツにも歩み寄る機運があったが、それでも壁は高かった。
これは、ナチズムというナショナリズムの暴走と敗戦の報いとは言え、近代国家において国民としてのまとまりを模索し続けるドイツが冷戦で分断された矛盾の表れだった。
東ドイツは新たな国としてまとまる理念を共産主義というイデオロギーに頼ったが、西ドイツとの経済格差は開くばかりだった。政府批判や国外脱出を押さえようと政府が言論や移動の自由を制限したことが、国民の不満を高めた。そんな政府の頑なさにはヴォンデさんも辛辣で、達者な日本語で「BOKETERU(ぼけてる)」と振り返った。
1980年代になってソ連にゴルバチョフ書記長が登場。共産主義の盟主自身が経済の停滞を認め、打破しようと改革を掲げた。それすら東ドイツでは政府が拒んだことが、そもそも何のために分断されているのだという国民の不満をさらに高める。東ドイツ政府が普及を進めたテレビは、一部地域を除いて西ドイツの放送も受信でき、情報統制は形骸化していた。
東ドイツで建国20周年を記念して東ベルリンにテレビ塔が建ち、それからさらに20年経った1989年、政府が建国40周年を祝うさなかに“Wir sind das Volk”(我々が人民=主権者だ)というデモが広がった。ベルリンでは人々が東から西へ流れ出し、壁が崩れた。
さらに1990年の東ドイツ総選挙で“Wir sind ein Volk”(我々は一つの民族だ)という訴えが席巻し、41年ぶりに東西ドイツは再統一された。
世界では1989年のベルリンの壁崩壊直後に米ソが和解して冷戦が終わり、91年にはソ連が崩壊していた。それが時代の流れだ。私はその後のことも、ヴォンデさんにぜひ聞きたかった。温めていた質問を切り出した。
旧東ドイツの地域で、いま中東からの難民受け入れ拒否など排外主義を叫ぶ新興右翼政党・ドイツのための選択肢(AfD)が伸びている。それはなぜなのか。
ヴォンデさんの話からすれば、共産主義の東ドイツで教育を受けた世代には、反ナチス教育が徹底されていた。そして再統一後の世代には、私が今回のドイツの旅で垣間見たような、ナチズムへの反省をもって民主主義を陶冶しようとする西ドイツの教育が広がったはずだ。
「ええ。東ドイツで私たちの世代にナチスは根絶されたはずなんです。だから、いまAfDが東側から出てくるのが理解できない。本当に恥ずかしい」。再統一後も「国境の架け橋」を自任してフンボルト大学で日独の交流に努め、3人の子を育て上げたヴォンデさんは、頭を抱えてしまった。
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