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共産主義が倒したはずのナチズム 統一ドイツの行方は 続・旧東独出身者との対話

【14】ナショナリズム ドイツとは何か/ベルリン⑤ 現代史凝縮の地

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

「新しい世界、新しい国をつくろう」

 「戦後に新しい世界、新しい国をつくろうと、先へ先へと進んでいました。世界が平和になるための架け橋になろうと日本学科を選びましたが、入学の年に東ベルリンであった世界青年学生祭典は素晴らしかった。世界中から学生が集まり、一緒に平和の歌を歌いました」

拡大ベルリンのフンボルト大学。東ドイツ当時にヴォンデさんが通った=2月、藤田撮影

 世界青年学生祭典とは、戦後に共産主義や非同盟の諸国で数年ごとに開かれてきたものだ。東ドイツ政府は人が増えすぎるという理由で、祭典期間中に西ベルリン在住者の立ち入りを禁じた。1970年代には米ソが一時緊張緩和に向かい、東西両ドイツにも歩み寄る機運があったが、それでも壁は高かった。

 これは、ナチズムというナショナリズムの暴走と敗戦の報いとは言え、近代国家において国民としてのまとまりを模索し続けるドイツが冷戦で分断された矛盾の表れだった。

 東ドイツは新たな国としてまとまる理念を共産主義というイデオロギーに頼ったが、西ドイツとの経済格差は開くばかりだった。政府批判や国外脱出を押さえようと政府が言論や移動の自由を制限したことが、国民の不満を高めた。そんな政府の頑なさにはヴォンデさんも辛辣で、達者な日本語で「BOKETERU(ぼけてる)」と振り返った。

拡大1989年10月、東ドイツのライプチヒで起きた民主化要求の大規模デモ=DPA通信

 1980年代になってソ連にゴルバチョフ書記長が登場。共産主義の盟主自身が経済の停滞を認め、打破しようと改革を掲げた。それすら東ドイツでは政府が拒んだことが、そもそも何のために分断されているのだという国民の不満をさらに高める。東ドイツ政府が普及を進めたテレビは、一部地域を除いて西ドイツの放送も受信でき、情報統制は形骸化していた。

 東ドイツで建国20周年を記念して東ベルリンにテレビ塔が建ち、それからさらに20年経った1989年、政府が建国40周年を祝うさなかに“Wir sind das Volk”(我々が人民=主権者だ)というデモが広がった。ベルリンでは人々が東から西へ流れ出し、壁が崩れた。

 さらに1990年の東ドイツ総選挙で“Wir sind ein Volk”(我々は一つの民族だ)という訴えが席巻し、41年ぶりに東西ドイツは再統一された。

拡大1990年3月、東ドイツの総選挙で西ドイツとの早期統一を求める勢力が勝ち、東ベルリンで西ドイツの国旗を振って喜ぶ人々=朝日新聞社

 世界では1989年のベルリンの壁崩壊直後に米ソが和解して冷戦が終わり、91年にはソ連が崩壊していた。それが時代の流れだ。私はその後のことも、ヴォンデさんにぜひ聞きたかった。温めていた質問を切り出した。

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筆者

藤田直央

藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)

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