記憶に刻もう、「私たち」を解放するために
2020年06月26日
米国で、白人警察官によって黒人男性の命が奪われ、“Black Lives Matter”(黒人の命は大切だ、黒人の命も大切だ……)と訴える抗議行動が広がっている。
日本はどうだろう。
日本でも、出自を理由とする差別は根強く残っている。ただ、ここでは肢体に重い障がいがある、ある女性の闘いを手掛かりにしたい。三井絹子さん(75)は「知る人ぞ知る」人なのだけれど、私は昨年、ようやくその足跡を知って、びっくり仰天してしまったのである。
立てない体で1年9カ月も座り込み、言葉が出なくても声を上げ続け、「あたりまえに生きる」ために闘ってきた。決してあたりまえじゃない、強い意志をもって。
これって、公民権運動みたいだな。
私はそう感じた。
1950~60年代に高揚した米国の公民権運動は、人種差別や人種隔離政策をなくすための闘いだった。三井さんたちも長年、差別や隔離に抗ってきた。
そうであるなら、公民権運動の母と呼ばれる故ローザ・パークスが米国で広く知られているように、三井さんたちの運動も広く記憶されるべきだろう。闘いの歴史を記憶することは、次に続く人たちが、理不尽に対して立ち上がる糧となる。
三井さんは先日、参考人として国会に招かれ、その体験や、地域でともに生きることの意味を語った。まずは、その話から始めたい。
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5月28日、参議院国土交通委員会。三井さんはまず、文字盤の1文字1文字を指さして、あいさつした。
こ、ん、に、ち、は。こんにちは。みついきぬこ、で、す。こんにちは三井絹子です。
文字を読み上げる介助者。うしろに立って頭を支える人もいる。そうしないと首がうなだれてしまい、前を向くことがかなわない。
あいさつのあとは、あらかじめ用意していた文章に移った。文字盤の会話を続けるには、およそ15分の質疑時間はあまりにも短すぎるからだ。
まずは、コロナ緊急事態宣言のもとで受けた差別について。
私は団地住まいで、お風呂場は狭くて段差もあり、私と介護者3人ではとても入れません。そしてお風呂に入れないと、毛穴が詰まって熱がでてしまうんです。
私はふだん、市内の温泉にいっています。でも、その温泉が休業になってしまった。唯一あいている銭湯がありました。私は2週間、お風呂に入れていなかったので、喜び勇んで入りにいきました。しかし、入店拒否をされました。
ああ、またお風呂に入れなくなっていたのか。入浴って壁が高いんだな……。
私は昨年暮れ、三井さんの半生を描く『絹子ものがたり』という劇をみた。東京都国立市の人権週間事業として催され、三井さん一家や、かかわりあってきた人たちが出演したこの劇の中で、市内の温泉に入れるようになるまでの経緯に触れていた。入浴用の車イスを使って洗い場に入ることが認められず、ビラをまいたり、議会に陳情したり、シンポジウムを開いたりして6年間も運動を続け、2017年にようやくかなったばかりだった。
その温泉が緊急事態宣言下で休業し、別の銭湯でまた壁につきあたる。しかし、市職員らも動き出し、話し合いを繰り返したのちに入浴が認められた。
いまは、地域のみんなと一緒に入ることが実現しています。でも、ここまでしないと入れないのも事実です。地方の温泉にいっても、必ず入店拒否を受けます。(障がい者)差別解消法の話をしても、「そんなものは通用しない」と幾度となくいわれてきました。そんなに通用しない法律って、なんなんでしょう。
私は地域のみんなと同じように権利が守られていくことを常に希望しています。これは決して大それたわがままな要求ではないと、みなさんにわかっていただきたいのです。
お風呂に入りたい。地域のみんなと同じように、あたりまえに生きたい。三井さんは、それが「大それたわがまま」とみなされてしまう現実と闘ってきた。
1945年、埼玉県に生まれた。生後半年のころ、高熱が出て、重い障がいを負うことになる。
参考人質疑では、子どものころの経験も語った。
私は学校にいったことがありません。母親が、学校側から「お宅のお子さんは自分の身のまわりのことはできない。自分で通ってこられない」といわれ、就学猶予の手紙がきたのです。猶予とはわかりやすくいうと、ぐずぐず先延ばしにすること。75歳になったいまでも猶予です。
小さいころの私の家は学校の近くにあって、毎日、子どもたちの「行ってきます」の声を聞き、「私も行きたい」という気持ちが募っていました。運動会の日、会の進行の曲が流れ、もうたまらなく気持ちをかき立てられました。家のそばでゴザを敷いて遊んでいたら、近所の子どもたちが数人寄ってきて、「おまえ、しゃべれないのか。歩けないのか。何もいえないのか。変な子。変な子」と口々にいってきたのです。くやしかった。
そのあと家庭の事情で、施設に入りました。私は社会から切り離され、隔離された。
施設に入ったのは20歳のとき。父親が亡くなり、このままでは一家心中しかなくなるという瀬戸際に追い込まれたためだ。
やがて別の施設に移ったが、そこでの暮らしも、つらいものだった。三井さんは手記の中で、こんな体験を紹介している。
「食べるのが遅い」と、食事の量を減らされた。月経のとき「汚いわねえ。こんなものだけ一人前にあるんだから。とってしまえばいいんだよ」といわれた。入浴時には、海水パンツを身につけた男性に抱き上げられて入り、その際、性的ないたずらが繰り返された……。
そこで、同性による介助を求めて入浴拒否闘争を始めた。
仲間たちと、1年9カ月にわたって都庁前で座り込んだこともある。山奥に新たな施設が設けられ、そこに移されるといううわさが広がったからだ。「すわりこみ宣言」では、こう訴えている。
「やっかいもの やくにたたないもの として『しょうがいしゃ』を 一かしょにあつめ かくりし いっぱん しゃかいから ぶんだんされ ひとしれず ほうむり さらせてしまうのです」
「わたしたちも にんげんなのです。なぜ しゃかいで いきては いけないのでしょうか」
やっかい者として隔離され、人知れず葬り去られる……。
激しい言葉に、頭を殴られる。
もちろん、いまとは時代も違うし、施設といってもピンからキリまで。地域の人たちと、かかわりあいながら生きていけるように工夫を凝らし、力を尽くしているところもある。ただ、人目を避けるようにひっそりと建てられているところは、いまも多いらしい。
三井さんは、ある裁判闘争で出会った「健常者」の学生と恋に落ち、結婚した。そして施設を出て、地域で暮らすことを決意する。
手記には、当時の喜びを、失敗談とともに記している。いまよりは体が動いたそのころ、自分でトイレに行ったものの、立ちそこなってくみとりの便器に肩がはまり、夫が帰ってくるまで動けなくなってしまったのである。
「ピンクの 蛆虫が 目の前で 踊っていた。金もない 道具もない 介護者も いない。そんな 無い無い 尽くしの生活でも 私は どんなに 嬉しかったことか,,,絶対生きてやるぞと思った」
トイレに行く時間に至るまで、すべて決められたとおりにふるまうしかない暮らしを強いられてきた。だから、自分の意思で自分の行動を決められることは、何にもまさる喜びだった。
もちろん、地域で生活するには支援が必要だ。
当時、保障されていたのは、家事を援助するヘルパーの派遣のみで、それも週1回程度にとどまるケースが多かった。三井さんや、やはり重い障がいのある兄、故・新田勲さんたちは、国や都などと交渉を重ね、一歩ずつ改善をかちとる。それが、24時間の介護も認められうる現在の制度の基礎となっている。
この原稿の冒頭、三井さんの足跡を知り、びっくり仰天してしまったと書いた。
施設や行政との闘いにも驚いたのだけれど、それだけじゃない。重い障がいがあっても、恋をし、結婚し、子どもを生み育て、さらに市の政策立案にまでかかわっている。いちばん驚いたのは、むしろそっちのほうだ。
私は凡人だから、日々の仕事とかいろんなことで、くよくよと悩む。そんなくだらないことで悩む自分がばかばかしく思えてくる。だって、「どんな状況におかれても諦めなくていい」と、身をもって示している人がいる。
『絹子ものがたり』に出演した顔ぶれは、その証拠にみえた。
三井さんの長女は、美しい歌声を披露した。宝塚歌劇団で娘役を務めた人だった。母が20歳のとき、自宅から施設に向かう場面では、歌詞を変えて『ドナドナ』を歌い、哀愁を誘った。
その長女を産むときには、たいへんな反対にあった。お産を引き受けてくれる医師を探しても、中絶を勧められ、何回も断られた。嫌がらせの電話もかかってきた。きっと障がいのある子が生まれる、いひひひ。笑って電話が切れた。
それでも出産を選び、ボランティアの協力を得て育てた。世話のしかたはすべて指示し、そのとおりに動いてもらった。だれが親かをわからせないと、娘は抱いてくれる人のほうを向く。自分の子どもにも差別されることになる、と考えたからだ。「何もできなくて、ごめんね」ともいわなかった。それをいい始めると、「ごめんね」だらけの人生になる。
『絹子ものがたり』には、国立市の部長と課長もエプロンをつけて登場した。三井さんの夫が入院して困っていたとき、ボランティアを募り、自身も三井さん宅を訪ねて家事をしたそうだ。
かつて三井さんをわがまま扱いした市の態度も、長い闘いを経て、次第に変わっていった。
三井さんは、市の審議会の委員を務め、福祉政策の立案にもかかわるようになる。
その足跡は、やはり重い障がいのある木村英子さんが、参議院に議席を得る前史でもある。
木村さんは19歳のとき、手記を読んであこがれていた三井さんのもとを訪ね、自宅に住み込んで
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