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日本でもドイツでも「他者」だった彼が今、難民と向き合って思うこと

日独“ハーフ”の牧野アンドレさんが世界で難民支援にかかわるようになった道のり

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

八王子では“外国人”、ドイツでは“アジア人”

拡大日本を訪ねてきたドイツの祖父と牧野さん=牧野さん提供
 牧野さんが生まれたのは静岡県浜松市。小学校2年生までここで過ごした後、東京・八王子市へ越す。そして小学校4年生の時、日本の大学で教鞭をとるドイツ人の父の仕事の関係で、スイスとの国境にあるドイツの町、コンスタンツで1年間暮らすこととなった。

 「家庭内での両親の会話は、日本語とドイツ語が混ざっています。父は今、在日30年近いので、母は日本語で話しかけ、父はドイツ語で返す、という感じです。僕は母とは日本語で話し、父はドイツ語で話しかけてくるのですが、自分は日本語を返す、ということが多かったです。なので小学校低学年の頃も、ドイツ語で父が何を言っているのか理解はできたのですが、“話す”ということを学んだのは、この小学校4年生での1年間でした」

 ドイツ語を話せないことで、最初は周囲とのコミュニケーションが上手くとれず、年齢は小学校4年生ながら小学校2年生のクラスに入った。

 「自分の考えていることが通じない、ということもショックでしたし、教室で机の形がコの字型に並んでいたりと、授業のシステムも違う。慣れないことばかりで、家を出て学校へ向かう前に吐いてしまったこともあったぐらいです」

 戸惑ったのは言葉や授業の仕組みの違いばかりではなかった。

 「小学校3年生を1年過ごしただけの東京・八王子市のクラスでは、短期間で馴染み切れなかったこともあり、“外国人”と見られていました。ところがドイツに行けば、“アジア人”というくくりで見られる。周囲の見る目もがらりと変わるんです」

 小学校2年生まで過ごした静岡県浜松市は、楽器メーカーや自動車メーカーなどの本社があり、工場で働く外国人労働者も少なくない。幼稚園や小学校にも、フィリピンやブラジルなど様々なルーツを持つ同級生がいたため、自分自身の見た目の違いも全く気にならなかった。

 ところが、引っ越先の八王子市では、明らかに見た目で「違い」が分かり、「ハーフ」と呼ばれる子どもたちは、少なくとも当時認識している限りでは周りにいなかった。

拡大ドイツ、コンスタンツで過ごしていた頃(右が牧野さん=牧野さん提供

「おいナチス」と言われ

 コンスタンツから日本に戻ってからも、その「違い」をポジティブにとらえることができなかったと牧野さんは語る。

 「歴史の授業の中でドイツのナチス政権について学んだとき、ちょうど同級生数人からいじめを受けていた時期とも重なっていて、『おいナチス』と名指しされたりすることがありました。自分は“違う”ものなんだ、“違い”が自分にとってマイナスなものなんだ、と感じてしまい、『なんでドイツのハーフとして自分を生んだの?』という話を親にしてしまったこともあったくらいです」

 子どもの何気ない会話の中での、無知ゆえの言葉、と思う方もいるかもしれない。けれど、何かしら歴史の問題が表面化したとき、その国にルーツを持つ人をその国の“代表”のように扱ってしまうのは、ヘイトの構造と同じかもしれない。

 ところが、中学校に入学すると、周りの目ががらりと変わった。

 「なぜか中学生頃から、“ハーフかっこいい”という目線に変わるんですよね。海外のモデルや俳優にもアンテナが広がる時期だからというのもあるのかもしれませんが、ある意味羨望の眼差しで見られるようになったんです。周りの反応が一変してポジティブになったのは、それはそれで困惑はしました」

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筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。写真絵本に『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)、著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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