自粛を要請した権力。独自の緊急事態宣言を出した首長。裁判所停止。もうなんでもあり
2020年06月26日
内閣が任命した大臣の金銭疑惑や新型コロナウイルス危機への様々な対策・対応について、議論したり追究したりする「場」として、国会がこれほど重要な局面はないにもかかわらず、そそくさと国会を閉じる与党・自民党。一方で、会期の延長を要求しながら、憲法審査会の出席は拒否し、新型インフル特措法の改正時には、「少数野党だから国会承認には意味がない」と言い放つ野党。
ご都合主義的な党派的行動原理はどっちもどっちで、もはや既存の政党政治は、「公共性」や「熟議」といった価値・理念から、全速力で遠ざかっているように見える。
新型コロナ禍に翻弄された2020年前半の日本を振り返って見えてきたのは、与野党や地方自治体の首長が協働で創り出す底抜けの「無法国家」ニッポンであった。本稿では、そうしたこの国の病理について論じたい。なお本稿では、政府等の対応の医学的・科学的妥当性については特に検討は加えない。本稿がフォーカスするのは、あくまで「法」的見地である。
1月に新型コロナの国内初の感染者が報告され、2月初頭にはダイアモンドプリンセス号での集団感染が発覚したが、この時点ではまだ、コロナはさほど深刻な問題として受け止められておらず、政府の対策もどこか鈍かった。
ところが、3月末に東京オリンピックの延期が決定すると、都内の感染者数が突如、急増。小池百合子知事が緊急事態宣言の発令を政府に求めるようになる。これらを受けて、政府は4月7日、「新型インフル特措法」に基づく緊急事態宣言の発令を行い、翌8日午前0時から指定された都道府県は緊急事態に突入した。
この経過の中で、無法国家ニッポンが立ち現れる。
宣言に先立ち、小池都知事は3月25日、都民に対して、「自粛」を「要請」するという、語義矛盾そのものとしか言いようのない「お願い」をする。これは法的根拠のない事実上の「お願い」であり、法的効果はもちろん何らの法的意味すらない。こんなもので我々の移動の自由や集会の自由が制限されること自体、法治とは到底言えない状況だが、都民は“自主的に”当該週末の外出を控え、集会、営業、教育など様々な面で、自由の行使を「自粛」した。
宣言前の出来事で印象的なものとしては、2月末の小中高校に対する安倍晋三首相の一斉休校の要請がある。これは本来、教育委員会が有している権限であり、首相には法的な権限はない。
緊急事態宣言自体も、新型インフル特措法によれば、一部の「命令」違反には罰則=強制力があるものの、我々市民が対応した様々な日常の行動や営業等々の自由制限については、法的な強制力のない「要請」しかできない。強制力がないために「補償」も後手後手となった。権力が責任主体ではなく市民社会が責任をとらされる「自粛」のもとでは、補償の議論もままならず、なにやら“恩恵=ほどこし”の香りすらする給付金を、世界より大分遅れて支給するのがやっとだった。
さらに驚きでアゴがはずれそうになったのが、先述した4月7日の緊急事態宣言の対象から外れた愛知県をはじめとするいくつかの自治体が、「独自の緊急事態宣言」を発令したことだった。そもそも、緊急事態宣言に基づく対処方針を策定して様々な措置を発令できるのは、国から指定された自治体だけだ。愛知県が独自でそのような宣言を発令する法的な根拠は存在しない。
これは、超法規的措置なのか? 宣言の効果は? 宣言に基づいて何ができるのか? 事後的に法的に争えるのか? 私は頭の中は「?」でいっぱいになり、もはや混乱を通り越して眩暈(めまい)がしたものである。
その後、緊急事態宣言は「解除」されたものの、「東京アラート」は“問題外の外”にしても、ステップ1、2、3などといった三段階の権利制約には全く法的根拠がない。当たり前のように法的に無根拠の措置を発する権力と、これに服従する市民。自由、権利、法の支配……。教科書で字面だけを追ってきたこうした概念は、我々の血肉には全くなっていない。まさしく、我々の社会に決定的に欠けているものが明らかになった数カ月だった。
我々の権利・自由が、ある程度の強制性をもって制限されるときは、我々の(一応の)代表者たる国会が制定した法律によるしかないというのが、民主主義国家のキモである。こうした事態における行政の判断に対する国会承認や、国会による批判的討議は、法律に準ずるものとして、民主的統制の重要な発動局面に他ならない。
「法」の大切な役割は、どこまでが自由でどこからが制限されるのかのラインを明確化することによって、我々の行動の自由の外延を可視化してくれる。それ以上いけば違法というラインは、我々に予見・予測可能性を与え、その枠内で自分たちの人生を設計する。山に「これより立入禁止」の立て札があるからこそ、そこまではハイキングをエンジョイできるのと同じだ。
この国では、権力者にとって幸いなことに、法的強制力、法的根拠がなくても、「自粛」を「要請」するだけで、国民が「一丸となって」権利行使を控えてくれる。罰則や強制力がない反面、国家が責任主体になりきらない緊急事態宣言は、むしろ市民社会にその責任と負担を丸投げしている。そして実際、法の根拠が薄弱なまま、コンサートも集会もレストランの営業も、「自粛」の「要請」という語義矛盾のままに実現された。
「要請」自体がいわゆる強制力(処分性)を有しないから、それ自体はもちろん、自粛警察らによって被害や損失を被った人々が訴え出ても、裁判所では門前払いされるだろう。
さらに言えば、緊急事態宣言を受けて、裁判所は一部の例外を除いて、一斉に4月8日以降の裁判期日(裁判を行う予定の日)を取消した。権利自由、法の支配の砦たる裁判所、最終的には緊急事態宣言自体の合法・違法を判断するかもしれない裁判所が、機能を停止する。まさしく司法は「不要不急」であると宣言したかのような凶行であり、司法権の自死である。裁判所の権利自由や法の支配に対する思考停止のスタンスは、我が国の無法のストッパーの不在を意味している。
法学部で習う言葉にLRA(less restrictive alternative「より制限的でない他の選びうる手段」)がある。権利制約の場面で、目的達成のために当該制約よりももっと権利を制約しない手段がないか検討せよ、というルールだ。
ここまで見てきたあらゆる「無法」に関して、なぜこのような考慮が働かなかったのか。一斉休校、緊急事態宣言の延長、裁判所の全期日取消を決めるに際し、より権利制約を少なくする他の手段を選びうる余地はなかったのだろうか。そもそも、そのような検討はされたのだろうか。
さあ、今こそ事後的な検証といっても、議事録も記録も残らないなかで、どうやって検証すればいいのだろうか?
宣言解除後に残っているのは“あの”マスク2枚だけというのでは、喜劇にもならない。
新型コロナの感染拡大や緊急事態宣言前後の経緯から浮かぶのは、安倍政権と小池都政が、「人々の命」や「国家の存亡」よりも他の事情を明らかに優先したということだ。
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