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朝鮮戦争で軍事輸送船になった「太平洋の白鳥」日本丸

朝鮮戦争70年 日本の「戦争協力」① 平和憲法施行まもない日本で何が起きたのか

徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

みなとみらい21地区に係留されている帆船日本丸=2018年6月13日、横浜市西区

 朝鮮戦争が70年前の1950年6月25日に勃発した。

 占領下の日本では、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で、「太平洋の白鳥」と呼ばれた大型練習帆船の日本丸や海上保安庁所属の旧日本海軍掃海部隊、民間の船乗りらが動員され、朝鮮海域での人員や武器の輸送、掃海に携わった。朝鮮戦争の兵站(へいたん)基地となった日本国内では、旧国鉄がフル稼働して軍事輸送することとなった。

明らかになっていない「戦争協力」の全容

 戦後の混乱期の日本は朝鮮特需によって活況を呈した。しかし、平和憲法を施行してまもない日本の「戦争協力」の実態はあまり知られておらず、全容はいまだに明らかになっていない。

 調達庁(旧防衛施設庁の前身)が1956年に占領期の仕事をまとめた『占領軍調達史』(全5巻)は、数少ない日本側の公的資料で朝鮮戦争時に日本政府や民間船会社などの戦争協力が記されている。

 そのなかの『占領軍調達史-占領軍調達の基調-』編に、朝鮮戦争に動員された日本人犠牲者についての記述がある。開戦から約半年後の51年1月までに56人が死亡したとされる。ただ、朝鮮戦争は53年7月まで続いており、この間に日本人が何人死亡したかについては不明だ。防衛省防衛研究所の調査では、確認できただけで約8000人の日本人が、海上輸送にかかわっていたとする。

 現代日本は、安倍晋三政権下で憲法9条の解釈改憲を強行、専守防衛が棄てられ集団的自衛権が認められた。これによって、米軍のために戦争海域や戦場に日本人が派遣されることが現実的なこととなった。対象は自衛隊員だけではない。朝鮮戦争にみられるように、民間の船員や労働者らが戦争海域に派遣される可能性もあり得る。

 民間人の戦争への動員は、占領という特殊な状況下でおこったことではないと考えるべきだ。

「白鳥」から羽をもがれた「黒鳥」に

 横浜市のみなとみらい21(MM21)地区。「太平洋の白鳥」と呼ばれた大型練習帆船の初代日本丸(2017年、国の重要文化財に指定)が展示されている。総トン数2278トン、全長97メートル、幅13メートル。同じく重文に指定されている旧横浜船渠(せんきょ)の石造ドックに浮かぶ。

 日本丸は商船学校の船員養成の練習帆船として文部省が発注し、満州事変勃発の前年の1930年に神戸で進水、竣工した。半世紀以上にわたって活躍し、84年に引退。太平洋を訓練海域として延べ183万キロを航海し、約1万1500人の船員を養成した。

 いまでは船内も一般公開され、29枚のすべての帆(セイル)をひろげる総帆展帆(そうはんてんぱん)と呼ばれるイベントが年10回程度、ボランティアらによっておこなわれる。海面から40㍍以上にもなる高いマストによじ登り、すべて手作業によってひろげられた真っ白な帆が空にはためく姿は、息をのむほど優雅で美しい。

29枚の帆を広げた「帆船日本丸」=2019年10月27日、横浜市西区

 こんな日本丸だが、太平洋戦争が激化した43年には帆装が取り外され、エンジンだけで航海するようになった。優美な「白鳥」の羽をもがれ、船体も目立たないように黒っぽく塗装され、あたかも「黒鳥」のごとく、瀬戸内海で石炭輸送などに従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として、2万5000人以上の引揚者を中国・上海や韓国・釜山、シンガポール、台湾などから輸送。外地での遺骨収集にも携わった。

動員された日本丸と海王丸

 日本丸はさらに数奇な運命をたどる。朝鮮戦争開戦に伴い、GHQの指示によって米兵や韓国兵、韓国人避難民らを輸送することとなったのだ。

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