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朝鮮戦争で軍事輸送船になった「太平洋の白鳥」日本丸

朝鮮戦争70年 日本の「戦争協力」① 平和憲法施行まもない日本で何が起きたのか

徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

「白鳥」から羽をもがれた「黒鳥」に

 横浜市のみなとみらい21(MM21)地区。「太平洋の白鳥」と呼ばれた大型練習帆船の初代日本丸(2017年、国の重要文化財に指定)が展示されている。総トン数2278トン、全長97メートル、幅13メートル。同じく重文に指定されている旧横浜船渠(せんきょ)の石造ドックに浮かぶ。

 日本丸は商船学校の船員養成の練習帆船として文部省が発注し、満州事変勃発の前年の1930年に神戸で進水、竣工した。半世紀以上にわたって活躍し、84年に引退。太平洋を訓練海域として延べ183万キロを航海し、約1万1500人の船員を養成した。

 いまでは船内も一般公開され、29枚のすべての帆(セイル)をひろげる総帆展帆(そうはんてんぱん)と呼ばれるイベントが年10回程度、ボランティアらによっておこなわれる。海面から40㍍以上にもなる高いマストによじ登り、すべて手作業によってひろげられた真っ白な帆が空にはためく姿は、息をのむほど優雅で美しい。

拡大29枚の帆を広げた「帆船日本丸」=2019年10月27日、横浜市西区

 こんな日本丸だが、太平洋戦争が激化した43年には帆装が取り外され、エンジンだけで航海するようになった。優美な「白鳥」の羽をもがれ、船体も目立たないように黒っぽく塗装され、あたかも「黒鳥」のごとく、瀬戸内海で石炭輸送などに従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として、2万5000人以上の引揚者を中国・上海や韓国・釜山、シンガポール、台湾などから輸送。外地での遺骨収集にも携わった。

動員された日本丸と海王丸

 日本丸はさらに数奇な運命をたどる。朝鮮戦争開戦に伴い、GHQの指示によって米兵や韓国兵、韓国人避難民らを輸送することとなったのだ。

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筆者

徳山喜雄

徳山喜雄(とくやま・よしお) ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

1958年大阪生まれ、関西大学法学部卒業。84年朝日新聞入社。写真部次長、アエラ・フォト・ディレクター、ジャーナリスト学校主任研究員などを経て、2016年に退社。新聞社時代は、ベルリンの壁崩壊など一連の東欧革命やソ連邦解体、中国、北朝鮮など共産圏の取材が多かった。著書に『新聞の嘘を見抜く』(平凡社)、『「朝日新聞」問題』『安倍官邸と新聞』(いずれも集英社)、『原爆と写真』(御茶の水書房)、共著に『新聞と戦争』(朝日新聞出版)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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