メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

旧日本海軍1200人が朝鮮海域で掃海作業 秘匿された戦死者

朝鮮戦争70年 日本の「戦争協力」②秘密裏に国連軍に協力した日本の掃海隊

徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

拡大1950年に始まった朝鮮戦争で、戦線を視察する連合国軍最高司令官マッカーサー元帥(手前)=米軍提供

 今から70年前の1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発してから3カ月余、海上保安庁特別掃海隊が戦乱の朝鮮海域に派遣された。連合国軍総司令部(GHQ)の指示だった。

国連軍の軍事作戦に寄与した日本の掃海艇

 期間は1950年10月2日から12月12日までの2カ月余り。約1200人の旧海軍軍人が掃海艇46隻、大型試航船(水圧機雷掃海用)に乗り込み、元山、群山、仁川などの各海域で掃海に従事した。

 日本掃海隊の技術の高さには定評があり、国連軍の軍事作戦に大きく寄与した。しかし、機雷27個を処分したものの掃海艇1隻が触雷・沈没し、死者1人と重軽傷者18人をだした。

 しかし、戦後に「戦死者」をだしたこと、さらに旧日本海軍軍人を出動させた事実は約30年間、秘匿された。明らかになったのは、朝鮮戦争時に海上保安庁長官(初代)だった大久保武雄による著書『海鳴りの日々』によってである。その後、研究論文などが発表されているが、多くの人が知る史実ではない。

 そもそも、どのような経緯で旧海軍軍人が戦乱の朝鮮海域に派遣されることになったのだろうか。当事者であり、事情をよく知る大久保証言などをもとに振り返る。

秘密裏に行われた掃海作業

 国連軍は1950年9月、仁川につづいて元山上陸作戦を敢行しようとしていた。だが、北朝鮮は国連軍の上陸を阻止するために多数のソ連製機雷を主要港に敷設しており、上陸作戦が遅延していた。これを打破するために、国連軍は掃海の高い練度をもつ日本の海上保安庁掃海隊に頼るほかなかった。

 米海軍参謀副長のアーレイ・バーク少将は1950年10月2日、大久保長官に接触し海上保安庁掃海隊の派遣を要請した。長官から指示を仰がれた吉田茂首相は、「国連軍に協力するのは日本政府の方針である」とし、バーク少将の提案に従うことを許可した。

 ただ、日本としては講和条約の締結前で、国際的にも微妙な立場にあった。そこで、掃海隊の作業は秘密裏に行うことになった。

 終戦時、日本近海には日本海軍が敷設した機雷約5万5000個と米軍が敷設した機雷6500個が残っており、航行の障害になっていた。これらの機雷の掃海は、GHQの指示によって日本政府が実施することになった。掃海作業に従事する人員は、旧職業軍人公職追放令に定める追放対象者から除外された。

 法的な根拠とされた1945年9月3日の連合軍最高司令部指令第2号には、「日本国及び朝鮮海域にある水中機雷は連合国最高司令官の所定の海軍代表により指示せらるる所に従い掃海せらるべし」とある。この指令が発せられた頃は、朝鮮戦争は念頭になかったと思われるが、指令第2号には掃海の対象海域に「朝鮮海域」が含まれていた。当初、掃海部は海軍省内に設置、海軍省廃止後は第二復員省、復員庁、運輸省海運総局、海上保安庁に移った。

 大久保長官はバーク少将から朝鮮掃海を要請された際、海上保安庁掃海隊に出動の名分を与えるため、文書による日本政府への指令を求めていた。これを受けた米海軍司令官ジョイ中将は10月4日、山崎猛運輸相に宛てて「日本掃海艇を朝鮮掃海に使用する指令」を発している。


筆者

徳山喜雄

徳山喜雄(とくやま・よしお) ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

1958年大阪生まれ、関西大学法学部卒業。84年朝日新聞入社。写真部次長、アエラ・フォト・ディレクター、ジャーナリスト学校主任研究員などを経て、2016年に退社。新聞社時代は、ベルリンの壁崩壊など一連の東欧革命やソ連邦解体、中国、北朝鮮など共産圏の取材が多かった。著書に『新聞の嘘を見抜く』(平凡社)、『「朝日新聞」問題』『安倍官邸と新聞』(いずれも集英社)、『原爆と写真』(御茶の水書房)、共著に『新聞と戦争』(朝日新聞出版)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

徳山喜雄の記事

もっと見る