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旧日本海軍1200人が朝鮮海域で掃海作業 秘匿された戦死者

朝鮮戦争70年 日本の「戦争協力」②秘密裏に国連軍に協力した日本の掃海隊

徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

機雷掃海中に触雷し戦後初の戦死

 山口・下関を出航した日本掃海隊は、1950年10月20日の国連軍による元山上陸作戦を控え、11日から元山の周辺海域で掃海作業に着手した。だが、一隻の掃海艇が17日午後、触雷して沈没。死者1人、重軽傷者18人をだすこととなった。

 殉職したのは、船舶で料理を担当する司厨員の中谷坂太郎さんだった。掃海中は甲板にいるのが安全なのだが、夕食の用意のため船艙の米麦庫に行ったときに運悪く触雷し、海に投げだされることになった。

 中谷さんは1929年、山口県の周防大島生まれ。16歳で少年海軍志願兵に応募したが4カ月後に敗戦を迎えた。翌年、瀬戸内海機雷掃海隊に応募し、海軍省内の掃海部に就職。日本近海で掃海作業に従事し、その後、朝鮮掃海に参加することになった。

 中谷さんと同じ船に乗っていた井田本吉機関長の迫真の手記が残っている。

 「上甲板出口附近は海水がザブザブしている。艇の船尾は水没し、前甲板は高く持ち上がっている。何かつかまっていないと立ってもおれない。海面は重油とゴミがウヨウヨしている。『触雷した』などと考える余裕もない。……伊藤君(測角員)と飛び込む。艇よりも1メートルでも2メートルでも遠く離れることが、身の安全だと考えたからだ。波は余り高くないが、油の海で泳いだ。船より離れるため真剣だ。一人程さびしいものはない。生きるしかない、(米軍の)大発が近づいてくる。手を上げるとこちらに廻ってくる。……私は助かった」(大久保著『海鳴りの日々』所収)

 朝日新聞(1991年6月12日夕刊「海派遣 日本特別掃海隊⑧」)によると、中谷さんの周防大島にある実家に米軍の情報将校らしい大佐と通訳が訪れ、父親の力三郎さんに「息子さんが元山沖で機雷掃海中、殉職された。戦争に参加したことになるが、日本の憲法9条(戦争放棄)とのからみもあり、国際問題になってもいけないので、瀬戸内海で死んだ、と受け取ってもらえないだろうか。十分な補償はさせてもらう」と告げた。

 葬儀は1950年10月27日、呉海上保安部で海上保安庁葬として営まれた。(兄の)藤市さんの記憶では弔慰金として400万円が支払われた。「現在だと2億円前後の大金でした」と振り返る。第6管区海上保安本部(広島)航路啓開部長だった池端鉄郎さんの手記「航路啓開の思い出」によると、「授与式は6管の部長室で行われた。力三郎は無言のまま軽くうなずいて、この金を受け取った。後ろ姿に計り知れない寂しさを感じた」とある。

箝口令がひかれた中谷さんの殉職

 中谷さんの殉職については、家族も同僚にも箝口令(かんこうれい)が敷かれた。数年後に断片的な報道(産経新聞1954年1月18日朝刊など)があり、54年1月30日の衆院本会議で共産党の川上貫市議員が国連軍による元山上陸作戦に日本の掃海艇が参加した事実を問うと、当時の吉田茂首相は「マッカーサー元帥が日本にいたときのことで、何も記憶にない」と煙に巻いている。

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筆者

徳山喜雄

徳山喜雄(とくやま・よしお) ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)

1958年大阪生まれ、関西大学法学部卒業。84年朝日新聞入社。写真部次長、アエラ・フォト・ディレクター、ジャーナリスト学校主任研究員などを経て、2016年に退社。新聞社時代は、ベルリンの壁崩壊など一連の東欧革命やソ連邦解体、中国、北朝鮮など共産圏の取材が多かった。著書に『新聞の嘘を見抜く』(平凡社)、『「朝日新聞」問題』『安倍官邸と新聞』(いずれも集英社)、『原爆と写真』(御茶の水書房)、共著に『新聞と戦争』(朝日新聞出版)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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