「金儲けのための資本主義」ではなく「人を大切にする資本主義」へ
2020年07月07日
ビフォア・コロナ(BC)とアフター・コロナ(AC)では見える景色が全く違う。「ラッシュアワーの満員の通勤電車」「校庭に響きわたる子供たちの声」「居酒屋でとりあえずビールで乾杯」。このようなビフォア・コロナの見慣れた景色は大きく変わってしまった。海外を見てみると、例えばニューヨークでは、既に大量の失業者が発生し、治安も悪化。社会の仕組みの維持も容易でなくなってしまった。
非常事態宣言は解除されたが、もう、ビフォア・コロナの世界に戻ることはできないし戻してはならない。今、私たちは、アフター・コロナの時代における世界と日本の姿を新たに構想しなくてはならない。歴史を振り返ってみても、気候変動や新興感染症の世界的流行が大きな文明史的転換をもたらしている。
例えば、14世紀半ばに始まったミニ氷河期に猛威をふるったペストの大流行では、当時の世界人口4億5000万人の22%にあたる1億人が死亡したとされている。特にヨーロッパでは、1348年から1420年にかけて断続的に流行し、人口の3分の1から3分の2にあたる約2500万人から5000万人、イギリスやイタリアでは人口の8割が死亡したと推定されている。
この頃ヨーロッパでは気候変動による不作や飢饉が起こったため、痩せた土地を無理に開発しようと森林破壊が進んでいた。森林の伐採によりキツネ、オオカミなどの住処がなくなり、ネズミが増殖したことが感染拡大に繋がったとも言われる。ペスト流行を魔女の仕業とし、疑わしい女性を魔女として迫害する「魔女狩り」も起きた。
ペストの世界的大流行の背景には、ヨーロッパでの地中海貿易圏の成長と、モンゴル帝国の支配下でユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったこともあると考えられている。その後、モンゴル帝国は弱体化し、一方、13世紀末に成立したオスマン帝国は勢力を拡大した。
また、ペストは社会システム変革のきっかけともなった。中世ヨーロッパにおいて絶大な権力を誇っていたローマ教皇を頂点とする教会も、感染症には無力だったため、十字軍の遠征失敗などと相まってその影響力が低下した。さらに、土地を所有していた封建領主も、ペストによる人口減少によって労働力が不足した結果、農民の地位が相対的に向上したことで、その地位を低下させた。教会と封建領主という2つの権力の失墜が、人間中心の生き方を取り戻すルネサンスにつながっていった。
過去の事例から導き出されることは、それぞれの時代におけるグローバル化と、そこに環境破壊や気候変動、そして新興感染症がセットで発生すると、それは時代の転換点、更に言えば人類文明の転換点に繋がるということである。
そしてコロナ禍を経て、世界は再び文明史的な転換点に立っているとの認識に立つべきではないか。
特に今回のコロナ禍によって、これまで利点とされていた選択と集中や効率化の弊害や弱点、すなわちグローバル資本主義のもとで進行してきた所得格差や社会の分断、そして地球温暖化などがあらわになった。これらの問題はコロナ禍がなくてもいずれ限界を迎える課題だったが、それが顕在化したとも言える。
だからこそ今、私たちは、「物質」や「資本」ではなく「命」や「人間」を最優先に考える社会に変えていかなくてはならない。
それはまるでペスト禍が既存の権威や価値観を変えルネサンスにつながったように、今回のコロナ禍は、人間を生産要素の一つとして位置づけひたすら効率化を優先してきた近代産業文明の価値観を変え、再び「人間中心の生き方を取り戻す」契機となり得るし、していかなくてはならない。
いわば、平時において高度に効率性を重視する「ジャストインタイム」の社会から、有事のときに命や健康を守る備えが十分に確保されている「ジャストインケース」の社会への転換である。
コロナ後の社会の基本は、いざという時に国民の「生命の安全」を守ることである。そのために、既存のあらゆる社会システムを再構築する必要がある。
また、コロナ後の経済システムは、どんな状況にあっても、すべての人が生きていくために必要な所得や医療へのアクセスが確保される社会でなくてはならない。そのためには、株主至上主義のような「金儲けのための資本主義」ではなく「人を大切にする資本主義」へ転換し、労働者を含む全てのステークホールダーが成長の果実を享受できる経済システムに変えていく必要がある。
そのため、私たちは“3つのバランス感覚”を取り戻さなくてはならない。
① グローバルとローカルのバランス
コロナ禍は、緊急時にマスクひとつでさえ十分に供給できないことを明らかにした。また、食料の輸出規制を行う国も現れた。戦後進められてきたグローバリズムは確かに世界を豊かにした側面はある一方、食料安全保障、エネルギー安全保障、経済安全保障の観点から見れば、我が国と我が国国民を極めて脆弱な環境の中に置くことになっている。
そもそも、ここまで高度なグローバル化が進まなければ、COVID-19の世界的な感染拡大は起こらなかったであろう。
だからこそ、これから大切なことは、国のあり方として、世界に委ねる部分と国内で対応すべき部分を峻別し、「戦略的な備え」に万全を期すことである。特に、行き過ぎたグローバル資本主義、特に金融グローバリズムによって生み出された国家の脆弱性や社会の格差を是正していく国家戦略が求められる。これからは、「戦略的に閉じる」政策が必要になってくる。
・急がれる経済安全保障の確立
今後、早急に経済回復した中国などの他国や他国の影響下にある企業が、経済低迷で割安となった日本の企業やコア技術の買収を進めてくる可能性が高い。こうした「外資」による買収を防止するため、資本規制などを通じた「経済安全保障」の強化が不可欠である。同時に、外資の代わりに資本や劣後ローンなどの資本的支援を供給できる政府系金融機関の機能強化も急がれる。
なお、コロナ禍の前から始まっていた米中の対立はさらに激化する様相を呈しているが、日本は米中のどちらにつくのかという二項対立的な文脈だけでなく、第3の軸として、英国及び英連邦との経済的、安全保障的な連携を強化する「21世紀の日英同盟」戦略を提唱したい。インドやオーストラリア、ニュージーランドとの関係は対中戦略としても極めて重要である。
ただし、日本は盲目的に米国側に付くのではなく、米中対立がそれぞれの経済圏を分断・分離していこうとする「デカップリングの狭間」を抜けて、世界の経済圏をつなぐ「多様性のハブ」としての役割を果たす戦略が必要である。
・憲法に食料安全保障の明記も
また、安倍政権が推進してきた大規模化、集約化、そして輸出に偏重した農業政策を改め、まずは国内需要を満たすことと、農家と農地の維持に重点を置く農政に転換しなくてはならない。効率一辺倒ではなく、農業の多面的機能にも着目しつつ、家族農業や兼業農家の価値も見直すべきだ。
大切なことは、地方において営農継続可能な所得を補償し、安心して農業に取り組める環境を整えることである。そのためには、直接支払い制度の拡充のよって農家の所得を補償する必要がある。単に効率化や競争を促すだけでは食料自給率50%の目標実現は不可能だ。10年も経たないうちに農家数と農地が急速に減少し、多くの中山間地域で営農継続が困難となり、農村そのものが消滅することになるだろう。残された時間は少ない。
あわせて、食料安全保障を憲法に明記すべきというのが私の持論だ。スイスは2017年、国民投票で憲法を改正し「食料安全保障」を明記した。
② 都会と地方のバランス
気候変動とコロナ後の世界においては、これまで利点とされていた集中・管理・効率重視は弱点になっていることが明らかになった。コロナ禍においては東京を中心とする都市部は感染症拡大に対する脆弱性を露呈し、病床稼働率を重視した効率経営は医療崩壊の危険性と隣り合わせであることも分かった。
・地方の権限と財源を拡充する
日本は長い歴史の中で中央集権と地域主権を繰り返してきた。今の行き過ぎた中央集権や官僚統制主義を改めなければ、国民の生命と安全を守れないことを多くの国民が実感したのではないか。今回は感染症だったが、大規模自然災害の対応においても、もっと地方に権限を与えるべきだ。
今回のコロナ禍においても、現場を知らない国がずれたタイミングで的外れな政策を繰り出す中、まさに現場を抱える各都道府県知事や各市町村長ら首長は、それぞれ地域の実情に合うやり方で踏ん張った。こんな時代だからこそ、決定はできるだけ現場に近いところで行うことが大事になる。権限と財源の一層の地方移譲が必要だ。
休業協力金や家賃支払い支援など、国も支援策を決めたが、地方が先んじて独自に政策を打ち出しており、重複も目立った。そうであるなら、最初から地方の裁量で自由に使える資金(感染症対応一括交付金)を渡し、地方の判断で地方の事情に応じた速やかな対応を促すべきではなかったか。
新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)も、地方の責任は定めるものの、その責任を果たすべき権限や財源の裏づけがなかったことが明らかになった。今回の対応を速やかに検証し、特措法の改正に着手すべきだ。
また、憲法第8章の「地方自治の本旨」にはそもそも4条しか条文がなく、かつ、地方のことは全て国の法律で定めるとされている。地方の権限や財源を強化する方向で憲法議論を深めることも必要だ。
・公共事業悪玉論を超えて
これまで、野党やマスコミは「公共事業は悪」だとする風潮が強かった。確かに、談合のような不透明なプロセスや費用対効果の低い公共事業は改めるべきだ。しかし、地方に流れる無駄なお金という印象を付けられてきた公共事業も、今や東京や大阪といった大都市が中心であり、地方に流れる公共事業費が減っていることはあまり知られていない。
南海トラフ地震、富士山の噴火、そして近年頻発している大規模水害といった自然災害リスクへの対応として、必要な公共事業は大都市に限らず増やすべきだ。コロナ後の社会の基本は国民の生命と安全を守るため、「いざという時の備え」を万全にすることである。
また、コロナ後に見込まれるアジアの成長を地方に取り込むためには、水際対策の強化も含めた地方の港湾と空港の整備には十分な予算が必要だ。
③ 富の所在のバランス
コロナの影響は社会的に弱い立場の人ほどその影響を強く受けた。例えば、ニューヨークでは黒人やヒスパニックといった相対的に所得の低い社会階層ほど、コロナによる死亡率が高かったと報告されている。まさに、所得の格差が生命の格差につながったのだ。
だからこそ、今、私たちが目指すべき方向は富の「偏在」(偏って存在する)から「遍在」(遍く存在する)への転換だ。
グーグルやアマゾンといったGAFAに代表されるような、「プラットフォーマー」と呼ばれるグローバルネット企業によって、世界市場は根こそぎ独占され、競合企業の排除、利益独占、そして租税回避が当たり前になっている。国の産業構造はおろか国家財政まで脅かされつつある。社会がほんの一握りの勝ち組と大勢の負け組に分断され、世界の不安定化が加速している。この進行しつつある社会の現実を顕在化させたのがコロナ禍であったとも言える。
コロナ後の経済政策の基本は、このように極端に偏った富の集中を改め、広く遍(あまね)く富を分配することだ。そのためにも、大企業最優先の政策ではなく、国民の暮らしを守る「家計第一」の経済政策への抜本的な転換が必要である。
これまでの政策は大企業に重点を置き、そこが豊かになれば恩恵が中小企業や家計に広がっていくという前提でつくられてきた。しかし、恩恵は多くの国民の「家計」には届いていない。今、何より重要なのは、「家計」を豊かにして消費力を高め、「消費を軸とした好循環」を回す経済政策である。
今回のコロナ対策としての全国民への一律10万円の給付金は、図らずも「ベーシック・インカム」的な性質を帯びている。他の社会保障制度や減税政策を整理統合したうえで、給付と税還付を組み合わせたベーシック・インカム制度を創設し、 尊厳ある生活保障を可能とすべきだ。高齢に伴う不安、失業による不安、子育ての不安、様々な不安が高まる社会で、すべての国民が、人生のあらゆるライフステージの中で、不安なく暮らせるよう再分配機能を強化していかなくてはならない。
また、コロナ禍は、現金給付だけでなく、医療や教育といった基礎的な行政サービス(ベーシック・サービス)も、いざというときの備えとして極めて重要だと認識された。無料あるいは安価に全ての国民が医療や教育といった基本的な公共サービスにアクセスできる環境の整備は、コロナ後の社会の最優先課題として取り組まなくてはならない。
そして、富を「偏在」から「遍在」に変えていくためには、税制を抜本的に見直さなければならない。まず、落ち込んだ消費を下支えするために1年間の期限を区切って消費税を減税し、景気の回復を見定めながら、国際的な法人税の課税の適正化や、高所得者への所得課税、資産課税の強化を行う。また、地球温暖化や貧困問題など世界的な課題解決につなげるためにも、金融取引に課税する「国際連帯税」の導入も検討していく。
ただし、経済が危機的な状況にあることから、当面は財政再建の目標は先送りし、低金利を活かした超長期国債の発行などによる財政ファイナンスで対応すべきであり、日銀による無制限の国債買い入れも当面は維持すべきだ。
・デジタル社会における新しい権利とプラットフォーマーの責任
コロナの影響で苦しむ人に一刻も早く届けるべき10万円の給付金が、特に都市部で遅れる事態が発生した。その原因の一つが行政のデジタル化の遅れである。今後、真に困っている人に速やかに支援の手を差し伸べるためにも、給付事務等にマイナンバーと住民基本台帳ネットワークの活用などを進めていくべきだ。
さらに、オンライン教育やオンライン診療、そしてライドシェアも、生活インフラの地域間格差を是正し、人々の移動の権利を保証するために有効な手段だ。地方での豊かな暮らしを応援する観点からも積極的に進めていかなくてはならない。
ただし、今後の大きな課題としては、データ社会におけるインフラとして機能しつつある「プラットフォーマー」による個人データの濫用も許してはならない。そのためには、自己に関するデジタルデータが正しく管理され、また自ら決定できる「データ基本権」が確立されなくてはならない。
この「データ基本権」は、健全なデジタルトランスフォーメーション(DX、デジタルによる変革)を実現するためにも不可欠な権利であり、「新しい権利」として基本的人権を定めた憲法13条に追加することも検討すべきだ。なぜなら、単に自己に関するデータを漏洩から保護する権利に留まらず、サイバー空間に自らの人格を複製した「デジタルツイン(双子)」について自己決定する権利をも含む、新しい人権概念だからである。
また、思想や良心の自由を保護するだけでなく、その思想や良心そのものが、プラットフォーマーなどによる心理操作に左右されずに形成されることを保証する「認知過程の自由」も、思想・良心の自由を定めた憲法19条に付随する新たな権利として検討していく必要がある。
コロナ禍は私たちにとって「本当に大切なものは何か」に気づくきっかけを与えてくれた。その一つは、効率や生産性の名の下に犠牲にされてきた生命や健康である。そして、もう一つが「時間」ではないだろうか。
外出自粛で家族と過ごす時間が増え、家庭内暴力が増えたとの報告がある一方、今まで仕事が忙しくて向き合えなかった配偶者や子どもと過ごす時間が増えたとの声や、強制的に在宅勤務が導入されて当たり前のように毎日乗っていた満員電車から解放されてよかったとの声も届いている。
実は、あのニュートンが万有引力の法則を発見したのも、ペストの流行で通っていたケンブリッジ大学が一時休校となり実家に戻っていた時のことだった。ニュートンは後にこの休校期間を「創造的休暇」と呼んだとされている。日常業務から解放され、自由な時間と空間の中でこそ、人間の創造性は開花するのかもしれない。
・「可処分時間」を増やそう
自由に使える所得を「可処分所得」というが、自由に使える時間である「可処分時間」を増やすことも人生においてはとても大切だということを、コロナで改めて認識させられたのではないだろうか。
コロナ後の社会における政策は、家計の可処分所得と可処分時間をともに増やしていくことに力を入れていくものに変えていかなくてはならない。それはこれまでのビジネスモデルや働き方を大きく変えることにつながるかもしれないが、こうした新たな価値観と視点こそが我が国が直面する最大の課題である少子化問題への解決にもつながる。
当たり前だったことが当たり前でなくなったり、大切だと思っていたことは実はそうではなかったり、逆に、意識もしていなかったものが重要だと気付かされたり、今回のコロナ禍は私たちの価値観を変化させることにつながっていくだろう。それは、数世紀続いた近代産業文明の歪みを改めていくプロセスなのかもしれない。
今年、炎鵬関の動画「さぁ、ひっくり返そう」が話題になったが、コロナ後の時代を生き抜くためには、価値観や生活様式をはじめ当たり前だと信じ切ってきたものをひっくり返していかなくてはならないのだと思う。そして、私たち政治もその例外ではないことを忘れてはならない。
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