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われらの忘れがたき日本人~乗松雅休と曽田嘉伊智

豊臣秀吉の日本を憎む、伊藤博文の日本は嫌いだ、しかし……

徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

キリスト教の伝道者になった乗松

 彼は1863年8月25日に現在の愛媛県松山に生まれた。二十歳代で新しい未来を夢見て上京し、すぐにキリスト教に接し、1887年に「日本基督公会」で稲垣信 (1848-1926) 牧師から洗礼を受けた。続いて明治学院神学部に入学し、「日本基督教一致教会」で教役の道を歩んだ。

拡大乗松雅休が修学した明治学院神学部の草創期の校舎、現在明治学院大学の白金キャンパスの歴史記念館=明治学院所蔵、筆者提供

 明治学院在学中に、英国系の信仰運動グループであるプリマス・ブレザレン(Plymouth Brethren、キリスト教同信会)に参加し、日本の各地で開拓伝道活動をした。そして、日清戦争直後に朝鮮宣教を志願し、単身朝鮮に渡った。彼は日本人プロテスタント最初の海外宣教師である。

 ソウルと水原地域で活動を開始し、同じ教派の日本宣教師ブランド(H.G.Brand)などの支援を受けて、1899年9月には新約聖書ローマ書を出版したりしている。

野宿伝道者

 乗松が朝鮮に来た時期は、いわゆる「乙未事変」(いつみじへん 1895年10月8日、朝鮮王朝高宗の王妃閔妃(びんひ)を一部の日本人浪人たちが殺害した事件)の直後で、朝鮮人の日本人に対する感情が非常に悪い時期だった。

 彼は、協力者チョ・ドクソンに朝鮮語を学びつつも、さっそく町に出て伝道を開始した。しかし、朝鮮人の冷遇は想像を絶するもので、甚だしくは泊まる場所すら求められず、寒天に野宿をする日々が続いたという。

 しかしそれでも、彼はひたすらキリスト教伝道者として朝鮮人を理解し、愛を実践によって伝えようと最善を尽くした。

柿の木と隣人愛

 独身で活動していた乗松は、その後日本に帰って結婚し、やがて夫婦揃って朝鮮に戻ってくる。そして、1900 年、京畿道水原に小さな家を用意して、伝道活動を再開した。

 彼は新婚の家の庭に柿の木を植えた。数年後に柿が実るようになったとき、彼はそれを収穫して、半分を隣家に持っていった。柿の木の根が地中で敷地の閾を越えて養分を得て実を結んだのだから、半分は隣の取り分だという意味だった。これに感動した隣人は、それから乗松の人柄と信仰に心酔し、彼の伝道を受け入れたと伝えられている。


筆者

徐正敏

徐正敏(そ・じょんみん) 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

1956年韓国生まれ。韓国延世大学と大学院で修学。日本同志社大学博士学位取得。韓国延世大学と同大学院教授、同神科大学副学長、明治学院大学招聘教授、同客員教授を経て現職。アジア宗教史、日韓キリスト教史、日韓関係史専門。留学時代を含めて10年以上日本で生活しながら東アジアの宗教、文化、社会、政治、特に日韓関係を研究している。主なる和文著書は、『日韓キリスト教関係史研究』(日本キリスト教団出版局、2009)、『韓国キリスト教史概論』(かんよう出版、2012)、『日韓キリスト教関係史論選』(かんよう出版、2013)、『韓国カトリック史概論』(かんよう出版、2015)、『東アジアの平和と和解』(共著、関西学院大学出版会、2017)など、以外日韓語での著書50巻以上。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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