われらの忘れがたき日本人~乗松雅休と曽田嘉伊智
豊臣秀吉の日本を憎む、伊藤博文の日本は嫌いだ、しかし……
徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長
韓国の孤児たちに天から送られ父と呼ばれた曽田嘉伊智
曽田嘉伊智(そだ・かいち 1867-1962)は、韓国孤児の父である。
1921年に鎌倉保育園京城支部の孤児院長として赴任し、長きにわたって朝鮮孤児を育てたが、植民地で孤児の世話をする彼に対する周囲の白眼視は尋常でなかった。
戦争末期の困難な時期には、孤児たち食料を与えるために日本の軍部隊を回って支援を請うたこともあり、また、孤児に対する彼の献身に感動した匿名の朝鮮人篤志家の援助もあったという。
彼の手によって成長した朝鮮人孤児は、数千人にのぼる。それらすべての者が、曽田を天から送られた父と呼んだ。
若い与太の変化
山口県出身の曽田は、若い頃には自由奔放な生活をした。若くして故郷を離れて外航船の船員などを務め、日清戦争後には日本の植民地となった台湾に移住、そこでも放蕩生活をした。特に酒癖が悪かったという。
ある日、彼は泥酔して路上に倒れたまま命が危うい状況に陥ったが、誰かが彼を助けて旅館に移し、治療して回復させた後、忽然と去っていった。後にその者が朝鮮人だという事実を知った彼は大きな感動を受ける。

YMCA時代の曽田嘉伊智、前列右から三番目=「永楽保隣院」所蔵、筆者のFBより
これがきっかけとなり曽田は朝鮮に渡り、YMCAで日本語教師として活動した。過ぎし日の愚行を反省した彼は、YMCAリーダーとして朝鮮人の多くの尊敬を受ける李商在(イ・サンジェ、1851-1927)の影響でクリスチャンになった。
「日韓併合」以後にも、朝鮮人の抗日独立運動について徹底的に理解を示し、特に朝鮮総督府の民族運動家弾圧に対して、直接総督府を訪問し抗議して、自身が苦難をうけることもあった。
さらには、孤児院活動を通して、自分が世話をした孤児のなかから独立運動に従事する人物が輩出されたことを誇りに思うと述べたこともある。

曽田嘉伊智が日本語教師として活動したときのソウルYMCA会館=筆者の講義資料より