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香港国家安全維持法、怖いけれど、声をあげるしかない

「彼ら」に萎縮するなとは言えない。「私たち」や「私」に何ができるのか

藤原秀人 フリージャーナリスト

 「香港国家安全維持法」が施行されてから、私は香港の知人に電話もメールもしていない。

 知人のなかには、いわゆる民主活動家がいる。取るに足らない私だが、香港の民主化は支持している。「国安法」と略称する新しい法律では、国家の安全に危害を加える「外国勢力」とみなされる可能性を否定できない。だから、連絡をとったりすれば、知人は外国人の私との「結託」が疑われかねないのだ。

 そんな大げさな、と思う人が多いだろうが、共産党独裁下の中国の法律は抽象的で、権力側からは何でもありのところがあるのだ。いま、香港の人々が息をひそめているのも、そのためだろう。共産党の怖さの一端を知るものとして、香港の彼らに萎縮するな、などとても言えない。

香港国家安全維持法の施行に反対するデモ行進で、「(中国共産党の)一党独裁を終わらせよ」と書かれたビラを掲げる参加者(中央)ら=2020年7月1日、香港香港国家安全維持法の施行に反対するデモ行進で、「(中国共産党の)一党独裁を終わらせよ」と書かれたビラを掲げる参加者(中央)ら=2020年7月1日、香港

誰も私を見ていない。実感した香港の「自由」

 四半世紀前のこと。中国では「九一八」と呼ぶ満州事変の記念日に合わせて、北京の日本大使館に住民が抗議に来るという噂を聞いて、駆け付けた。香港にいる知り合いの記者からも同じ情報を受け取っていた。

 日本大使館周辺の道路には警察官が張り付いていた。私は警察官に詰め寄られた。

 「なんの取材だ」

 無視して大使館の写真を撮っていたら、「お前はだれの許可を得て撮影している」と詰問された。「ここは公道だ。許可なんかいらない」とはねつけたら、「この道は北京市政府が管理している。お前は市政府の許可を得たのか」と有無を言わさず、奪い取った私のカメラからフィルムを抜き取った。今ならディスクを抜かれるのだろうが。

 北京でいつもこんなことが起きていたわけではない。しかし、「六四」天安門事件記念日など政治的に敏感な時にはこういうことがままあった。天安門事件の民主化運動リーダーだった王丹氏の家族ら関係者に会おうと思うと、必ずと言っていいほど、待ち合わせ場所付近で警察官に止められた。「ここから先の道は規制されている」。

 電話が鳴って受話器をとると、別の日本の新聞社支局につとめる聞き覚えのある記者の声がする。東京本社とやりとりしているようだ。何で、と思ったら、プチっと切れた。そんなことも数回あった。盗聴や尾行は、やる側がわざと気づかせて脅かす時もあれば、私がまったく知らないうちにハメられていることもあったようだ。

 北京など言論不自由な中国大陸での取材活動は今も昔も神経をすり減らす。小心者の私は、スパイ取り締まりをする国家安全省につかまって拷問を受ける夢を見たことが何回かある。だから、出張とか休暇で香港に行くと、肩の力が抜けるだけでなく、全身から緊張が解けて、逆に発熱したり腰痛が出たりしたことがしばしばだった。

 誰も私のことを見ていない。私にとって、香港に言論の自由があるというのは、そういうことだった。大陸では知らず知らずに「萎縮」するのだ。

歌うのは危なくなった「香港国歌」

 その香港はもはや「聖域」ではなくなった。

 朝日新聞特派員の記事によれば、国安法が施行されて最初の週末となった7月4日、香港で抗議デモは起きなかった。SNS上では4日、米国の独立記念日を祝うという名目で集まる抗議デモが呼びかけられていたが、集合場所の米国総領事館前に集まった市民は数人にとどまったという。外国勢力との結託を疑われるのを避ける人が多かったようだ。

 昨年来の反政府デモの代表的スローガン「光復香港 時代革命」(香港を取り戻せ 我らの時代の革命だ)についても、香港政府は国安法に違反するとの認識を示した。

 私の好きな歌「願栄光帰香港(香港に再び栄光あれ)」はどうなるのだろう。反政府デモで必ずといっていいほど歌われ

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