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「保革」「左右」を超えた野党再編の対立軸は何か/上

近代日本を貫く「大日本主義」と「小日本主義」

田中信一郎 千葉商科大学基盤教育機構准教授

「大日本主義」の祖・徳川斉昭と「小日本主義」の祖・松平忠固

 明治維新とその後の藩閥政府を担った長州藩士・薩摩藩士らの政治思想のルーツは、徳川斉昭の水戸学にある。水戸学とは、いわゆる尊王攘夷思想のことで「吉田松陰らを通して明治政府の指導者たちに受け継がれ、天皇制国家のもとでの教育政策や、その国家秩序を支える理念としての「国体」観念などのうえにも大きな影響を及ぼしてい」った思想である(注1)

 維新の元勲・藩閥政治家らに強い思想的な影響を与えた吉田松陰は、水戸学に傾倒し、自らの思想を形成した。日本を特別視する精神主義的な観念論である(注2)

 吉田松陰は、対外的な侵略を唱えた主でもある。吉田松陰が師の佐久間象山に送った手紙「幽囚録」には次の一節がある(注3)

蝦夷(えぞ)を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察加(カムサッカ)、隩都加(オロッコ)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同(ちょうきんかいどう)すること内(うち)諸侯と比(ひと)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(い)れ貢(みつぎ)を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。

拡大吉田松陰
 これは、まさに後年の大日本帝国の侵略構想のひな型である。作家の井出孫六は「松陰の思い描いた誇大妄想的ともいえるこの国の未来像が、維新以後、彼に畏服する後進たちによって輿論化され」「北海道開拓使の設置、台湾征討、琉球処分と、ことは頓々拍子に進展」して、日韓併合から「日露戦争を始めてみれば、南樺太はかんたんに領有でき、満州に利権が生まれる。振り返ってみれば、日本は黒船の衝撃からわずか五十年にして、西欧列強に伍して植民地争奪の列に加わり、松陰が「幽囚録」に描いた誇大妄想ともいえる青写真の過半を現実のものとしていた」と評している(注4)

 こうした対外的な覇権を求める国家方針は、一部で「大日本主義」として批判された。東洋経済新報社主幹(主筆)の三浦銕太郎は、1913年の『東洋経済新報』4月15日号に「大日本主義か小日本主義か」との社論を記し、満州掌握などの政府の大陸政策を厳しく批判した。

 「大日本主義」と「小日本主義」の対立軸は、イギリスの「大英主義」と「小英主義」の対立軸に倣っていた。「イギリスでは大英主義(領土拡張、保護貿易政策)と小英主義(大英主義に反対、内治改善・個人の自由と活動力増進など)」があり、三浦銕太郎は「日本の実情は大日本主義を主張する政党はあっても小日本主義の政党はな」いと嘆いていた(注5)

 さて、大日本主義の祖が徳川斉昭ならば、小日本主義の祖は誰であろうか。井出孫六は佐久間象山、歴史学者の田中彰は植木枝盛や中江兆民を挙げている。

 筆者は、上田藩主で開国交渉時の老中だった松平忠固(ただかた)と考えている。これは、先日発刊された関良基氏の著書『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)で明らかになった知見を踏まえている。

 松平忠固は、老中として日米和親条約と日米修好通商条約の交渉に参画した。関の研究によると、当初の両条約は関税自主権などを有する対等なものであったが、後の長州藩による下関海峡無差別砲撃事件の敗北を受けて、関税自主権などを失う不平等条約に改定されてしまった。松平忠固は、植民地化の野心をもつイギリス・フランス艦隊の来航前に、アメリカと対等な条約の締結に成功していたのである。

 松平忠固の特徴は、現実的で巧みな政策とリベラルな思想にあった。日米修好通商条約の交渉時、彼は次席老中で勝手掛(財政担当)であった。関によると、彼は「適度な水準の関税を賦課して財源を確保し、アヘンなど有害な商品を禁制品にする以外は、可能なかぎり自由な交易をめざしていた」という。また、キリスト教の流入に対する懸念については「日本人の一部がキリスト教に改宗したところで何ら不都合は起こらないと確信」し、攘夷派の使う「邪教」などの差別的な言葉も使っていなかった(注6)

拡大徳川斉昭
 徳川斉昭との鋭い対立と佐久間象山の重用も、松平忠固を「小日本主義」の祖たる存在にする。松平忠固は徳川斉昭の幕政参画に一貫して反対し、水戸学を背景とする彼の政策提案も反対した。一方、ペリーとの交渉に際しては、佐久間象山のいた松代藩に警備を命じ、佐久間象山が警備責任者になった。信頼する家臣を佐久間象山に弟子入りさせてもいる(注7)

 佐久間象山は「小日本主義」者と考えられている。佐久間象山は、弟子の吉田松陰に対し、論理力と国際的視野の不足を説いていた。吉田松陰が海外への密航を試みて、二人がそれぞれ幽閉されたのも、その影響である。また、吉田松陰の「幽囚録」に対して「忿恨の言、これ省みざるべからざるなり」と苦言の返信をした(注8)

(注1)鈴木暎一「水戸学」茨城大学図書館ホームページ
(注2)関良基『日本を開国させた男、松平忠固』作品社、2020年。223頁。
(注3)井出孫六『石橋湛山と小国主義』岩波書店、2000年。5頁。
(注4)前掲5-6頁。
(注5)田中彰『小国主義』岩波書店、1999年。117頁。
(注6)前掲『日本を開国させた男、松平忠固』90-91頁。
(注7)前掲29-39頁、46-47頁。
(注8)前掲『石橋湛山と小国主義』3-4頁。松平忠固の家臣には「日本で初めて普通選挙による議会選挙を提唱」した赤松小三郎もいた。赤松小三郎も「小日本主義」と考えられる。関良基『赤松小三郎ともう一つの明治維新』作品社、2016年。

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筆者

田中信一郎

田中信一郎(たなか・しんいちろう) 千葉商科大学基盤教育機構准教授

博士(政治学)。国会議員政策担当秘書、明治大学政治経済学部専任助手、横浜市地球温暖化対策事業本部政策調査役、内閣府行政刷新会議事務局上席政策調査員、内閣官房国家戦略室上席政策調査員、長野県企画振興部総合政策課・環境部環境エネルギー課企画幹、自然エネルギー財団特任研究員等を経て、現在に至る。著書に『政権交代が必要なのは、総理が嫌いだからじゃない』『信州はエネルギーシフトする』、共著に『国民のためのエネルギー原論』『再生可能エネルギー開発・運用にかかわる法規と実務ハンドブック』などがある。

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