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「優生思想」に抗うしなやかな闘い~相模原殺傷事件後の世界

金滿里さんに聞く【後編】~いまこそ「家族」を、「社会」を問おう

岩城あすか 情報誌「イマージュ」編集委員

 相模原の障碍者施設で起きた未曾有の大虐殺から4年。裁判は終わったが、社会はものすごい速さでこの事件のことを忘れ去ろうとしている。コロナ渦で人工呼吸器が足りず、他国では助ける命と見捨てる命の選別が現実化する状況下、私たちはどう生きるのか。『「介護」は自発的な意思でなされるべきだ』に続いて、子ども時代を施設で過ごし、21歳から家族以外の他人による介護のもと自立生活を送る金滿里氏の言葉から考えたい。

「介護」を通してみえる未知なる自分

――前編では、介護するという行為は、健常者の自発的な意思によってのみなされるべき、という話をしましたが、介護者はどのような意識で臨めばよいのでしょうか。

 最近、「しんどいことに向き合う」というのは流行らないね、「業」みたいで。私なんかは常に「意固地でいないとあかん」と思っているし、自分のやりたいことを実現するには、目の前の人をどう使ったらよいか、ということはわかっている。でも「使う」「使われる」という関係性は相互作用。介護に来る人は、敢えてしんどいことをしたいとは思わなくても、「常に変化したい、上書き保存していきたい」という姿勢は最低持っておいてほしい。「今までの自分でいい」ではなく、自分の中には自分でも知らんことがいっぱいあるんやし。誰でも自分を変えられるのやから。

――滿里さんも変わってきたのですか?

 軸はブレてないけど、そのまわりの生活習慣というか、文化的なところは結構変わっている。私の知らない世界や文化は、「介護」を通してちゃんと持ち込まれているから。例えば中華鍋を使って料理するとか、どんな服が心地よいのかとかは、自分の生活様式の中に、どんどん取り入れている。

――私も韓国の食文化や滿里さんの家事に対するこだわりに、大いに影響を受けました。

 実家で食べていたものを食べたいからね。介護の人に薬味醤の作り方とか教えて。でも、自立生活を始めたころに多くいた「運動していることが喜び」という介護者は、私が運動しなくなったら来なくなった。だけどそのころ「金ちゃんが運動つぶす側にいってしまっても、きっと介護はつくと思うで」といってくれた障碍者がいて、それが私からしたら晴天の霹靂やった。個人として介護をつけられる、とは最初思っていなかったから。だから運動とは離れて一人になったんやけど、そのときに「介護に来て」と色々電話をかけたわけ。その人がダメでも、知り合いをつたって、他の人が来てくれて。

――私も知り合いに誘われたのが介護に入ったきっかけでしたし。あまり自発的ではなかったですが、どんどんはまっていったような……。

 「今すぐ来て。来れないんやったら、誰かいない?」とか言いまくったら、なんとかなるもの。「なんとかなる」っていう、その強さこそ、いちばん本人が「生きている主体」になっていると思うよ。保障されたり、何かやられてるときよりも、困ってるときのほうが生きてる実感というか、主体的である瞬間がある。

金滿里さん(撮影:仙城真)

家族と地域のあり方

――お金持ちで何不自由ない生活は退屈っていいますもんね。貧乏で苦労してる方が生き生きしてる感はあります。やはり「家族」と「地域」のあり方に帰結しますね。そこにメスを入れないかぎり、誰も幸せになれないのでは。

 うちの父は末期ガンで自宅での緩和ケアを受けていて、5月に亡くなったのですが、最後の2か月くらいは、夜7回とか10回とか起こされて。仕事もしながら家族が順番に介護しましたが、慢性的な寝不足でつらかったです。介護保険も適用されていたし、このままでは家族がもたないからとヘルパーさんを頼んでも、夜に入れる人の登録がないとのこと。これが地域の実態でした。

 障碍者も同じ。ヘルパーの人は夜10時までで、自分でトイレに行けない人は、帰るときにおむつされている。

介護される父(5月17日、亡くなる3日前に弟と散歩した時の写真)
――父も最後の数日間は望まないのに夜におむつをされました。それがよほど嫌だったのか、自分で起き上がれなくなると、あっという間に亡くなってしまった感があります。

 今回、コロナ渦の中で家族の介護をしてより実感したことは、エッセンシャルワーカーの給与水準が低すぎるということ。高い専門性と志を求められるいっぽうで、精神的、肉体的にしんどく、ウイルス感染などのリスクもあるからどこも人手不足が深刻化しています。ヘルパーや看護師をしている知り合いもいますが、より重度な人の介護を忌避する傾向が否めず、なす術がありません。このような状況をどうしたらよいと思いますか。

 私はキューバのシステムがいいと思う。キューバは医療がすごく充実していて、診療所の数とか、常駐している人の数が人口に対して決められているので、誰もが夜中でも安心してかかれる。尊敬すべき仕事として、給料もしっかり払われているし、すべての人が生き合える「共生の社会制度」をつくっている。「生きる」ということを「社会の問題としてとらえよう」という考え方のもとに、地域がつくられているのが理想。障碍のある人に「やってあげる」という、サービスを商品化する発想を根底から覆さないといけない。
 弱さを認め、理解し合い、互いの足らないところを補っていくという、自分たちの「共生の仕組み」を制度化する。金もうけにならなくても、命に関わることは、自分たちで引き受けてやっていこうやと。一緒に汗水たらしながら、そういう関係性をつくっていく社会を前提にしなければ。
 日本はキューバとは正反対の方向。すべて命の価値を経済効率主義に照らしてとらえる「強者の論理」を克服する必要がある。

――そこに「お金」は介在しないほうがいい?

 そう。お金は国の介護の制度に組み込んで、しっかりとした職業の位置付けで介在させるのはいいんやけど、障碍を切り売りして、このレベルならこのサービス、とか決められるのはおかしい。

人間は誰でも弱い生きもの

――日本は本当に破滅に向かってまっしぐら、という感じです。超高齢化社会を前に、足りない資源を奪い合う「自己責任」の構造にはめられていくような。目の前のしんどさ、生きづらさは、いまの社会の在り方を変えるチャンスなのだと捉えたい。現実的には「一億総活躍」などせずとも社会はまわるし。軍事にかける支出を減らして、「いのち」の価値を最優先に社会をつくりなおすことが求められていると感じます。

 そもそも、人を助けることにお金が出てくるのは変やと思わない? 道を歩いていて、となりで転んだ人がいたら助けるでしょう、ふつうは。「病院いきましょうか?」とか立ち止まって話しかけることが当たり前のモラルやったと思うんやけど。

――でも最近は違いますよ。こないだスーパーの駐車場でおじいさんが倒れてはって、周りに誰もいないんですよ。私ともうひとり、通りがかった女性が声かけたけど。でも倒れている人の目の前の車の中では、中年の女性がおにぎり食べながらそれを眺めていて、それが一番怖かったです。

 だから何かあっても、「手出したらあかん」という社会になってんねん。もう、人間の基本的な本能みたいなものが壊れている。下手に手をだすと「責任問題」とか言われるんじゃないかと。なんでも「自己責任」で解決させようとしてきたことの結果やと思う。
 高齢化社会になって、助けられなあかん人たちがいっぱいになったときに、あたりまえみたいにそれを助けられるか。でも、地域的関係を重視するのは、ある意味「閉塞」やし、私は息苦しい。

――地域で一度揉めたりしたら、その後やりにくいですしね。

 私は隣近所の人に介護されるなんて、絶対に嫌。プライバシーなくなるし。だから介護を仕事として位置付けるなら、エッセンシャルワークの働き手は社会制度として、今の水準より格段に高い給料が支払われるべき。最低賃金レベルにしてはいけない。すごくプライドの持てる仕事にしていかないと。

――ひとり一人の特性に合わせながら介護をするのは、高い専門性とコミュニケーションスキルを要しますもんね。命の営みにお金を介在させることのリスクもよくわかります。

 お金を介在させない関係性をまず基本にしないといけない。近い将来、もっと介護する人の数が足りなくなるので、社会システムとしてお金を介在せざるを得なくなるのなら、「お金なくても介護にいくで」という関係性をつくれるような訓練のために使うべき。

――そんな訓練、どうできるんですか?

 今の世の中、みんな余裕がなくて、自発性が発芽する環境そのものがないから、そこから始めないとダメ。たっぷり時間があって、安心して暮らせる環境がないと。
 いまはなんでも利用しようとする。ちょっと何かやったら、私に何を返してくれるの? とかいうせこい状況からは、ゆたかな関係は生まれない。

――最後に。滿里さんはどんな社会をめざしますか?

 自発的な、死のうが生きようが、自分で責任をもつ、それには生き合う=共生することが肝心。人間って弱いんやから。ひとりでは生きていけないけど、生き合うことで、人生が他者の分まで広がっていく。幾重にも重なる命の渦の力が原動力となる、そんな社会にしていかないと。

2年目の追悼アクションの写真(撮影:渕上哲也)

「いのち」を最優先させる社会を

 ニュージーランドのアーダン首相が「週4日勤務(週休3日制)」の導入を企業に呼び掛け、話題となっている。(「NZ首相、週休3日制を提案 観光市場拡大で経済復興」参照)

 同国の観光業は60%が国内の観光客により成り立っていると指摘した上で、余暇が増えれば観光市場が拡大し、新型コロナウイルスで打撃を受けた国内経済の復興に役立つとしているが、日本も「Go To トラベルキャンペーン」よりこういう施策を進める方が、経済復興に役立つだろう(実際に2か月の試行をした企業も、生産性やワーク・ライフ・バランスの向上や、ストレスの低減がみられるなど大きな成果があり、本格導入するという=「週休3日制を2ヶ月実験したニュージーランド企業、成功の要因は組織風土にあり」参照)。

 コロナ渦はもとより、「50年に一度」という豪雨に毎年見舞われるようになった日本。気候変動リスクが世界的に高まる中、過去の経済成長モデルにとらわれることなく、「お金」がなくても安心して暮らせる社会モデルへの転換が迫られている。

 超高齢化社会を目前に、「いのち」を第一に考えた、シェアリングの知恵をフルに活用させなくては、殺伐とした末法の世がすぐそこまで来ていると感じる。時間も食べ物も住むところも、争って奪い合えば足りないが、分かち合えばあまるくらいにあるはず。

 自分の中にも、世の中にもあふれる優生思想と能力主義。分断して格差を広げて排除しようとする社会の流れに抗い、どう立ち向かえるか。絵空事ではなく、本気で試す頭のやわらかさ、心のしなやかさが一人一人に問われている。

7.26障碍者大虐殺 4年目の追悼アクションin梅田
 そんな社会をつくりたいと、今年も7月26日に街頭へのアクションを予定している。午後6時から、JR大阪駅近くのヨドバシカメラ梅田店周辺にて、4年目の追悼アクションをおこなう。スタンディングとスピーチでアピールするほか、献花台も用意。花、プラカード、フェイクキャンドルなど持参大歓迎。新型コロナウイルス感染防止策として、スタンディングは約2m間隔を空けておこなう予定。追悼アクション有志のツイッターアカウントはこちら。近くのかたはぜひ通りがかってほしい。