【15】ナショナリズム ドイツとは何か/ベルリン⑥ 現代史凝縮の地
2020年08月27日
ベルリンにあるドイツの国立追悼施設「ノイエ・ヴァッヘ(新衛兵所)」。ドイツのナショナリズムを考える今回の旅の目的地の一つだった。近代国家において戦没者をどう弔うかは、その国家と戦争の関わりを映す重いテーマだからだ。
私がかつて訪れた米国のアーリントン国立墓地の起源は南北戦争に遡り、兵士ひとりひとりの白い墓石が緑の丘に延々と広がっていた。日本には戦後にできた国立千鳥ケ淵戦没者墓苑がある一方で、明治維新以来の戦没者を戦前から祀る靖国神社もあり、その「御祭神」に第二次大戦の指導者も含まれていることから、国民を代表する首相の参拝の是非をめぐりいまも議論が尽きない。
ノイエ・ヴァッヘも、ドイツと戦争の関係をめぐりあり方が変転し、議論の末に再統一後の1993年、国立の「中央慰霊館」となった。慰霊の対象はドイツ国民を大きく超え、「戦争と暴力支配の犠牲者のために」とされた。その創設に深く関わった人物へのインタビューとあわせ、経緯をたどる。
ベルリン滞在中の2月13日午前、ウンター・デン・リンデン通りにノイエ・ヴァッヘを訪ねた。この通りはベルリン中心部を西のブランデンブルク門から東の王宮まで貫き、プロイセン王国当時からの建築が並んで観光客も多い。
ノイエ・ヴァッヘは東の王宮の手前にある。「新衛兵所」の呼び名は、かつて王宮を守る近衛兵の詰め所だったところから来ている。
神殿風の太い柱の間を通り、石造りの建物の中へ。灰色を基調とした16メートル四方の床と、高さ7メートルの壁に囲まれた空間が広がり、床の中央にふたりを象るブロンズ像だけがあった。「哀れみ(死んだ息子を抱く母)」だ。
賑やかな表通りから立ち寄った観光客が20人ほど、みな遠巻きに沈黙し、この像を見つめていた。数輪の花が捧げられた手前の床に、”DEN OPFERN VON KRIEG UND GEWALTHERRSCHAFT”(戦争と暴力支配の犠牲者のために)とあった。
像の真上の天井中央に直径2メートルほどの穴があり、曇り空から弱い光が注いでいた。入り口の守衛の男性に聞くと、雨の日は降り込むが水は側溝へ流れるという。私が二日後の夕焼けの頃に再訪すると、迫る闇が像を包み込む全く違う光景があった。
この芸術的な国家の慰霊の場は誰を弔い、それはどのようにして決まったのだろう。ノイエ・ヴァッヘは隣の国立ドイツ歴史博物館が管理する。中央慰霊館ができた当時の初代館長、クリストフ・シュトルツルさん(76)に聞いた。
シュトルツルさんは今はベルリンを離れ、南西へ200キロほどの古都ワイマールにあるフランツ・リスト音楽大学で学長をしている。数日後にシュトルツルさんをワイマールを訪ねた時の話を交え、書き進める。
1993年にできたノイエ・ヴァッヘをすべての「戦争と暴力支配の犠牲者」に捧げたことについて、「友人コールが決めた」とシュトルツルさんは語る。
西ドイツから統一ドイツへの移行期を含め、戦後ドイツの首相として最長の16年間を務めたヘルムート・コール(1930~2017)だ。
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