藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)
1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【26】ナショナリズム ドイツとは何か/ワイマール③ ホロコーストと市民
もう一棟の大きな建物はかつて、収容者から奪われ消毒された衣類や所持品が詰め込まれた倉庫だった。入ると白い壁に赤で大きく”GEWALT”(暴力)とあり、常設展「追放と暴力」が始まる。「広さ40万平方メートル、電気有刺鉄線3500メートル、27万8800人を50カ国以上から収容、死者5万6000人……」。まず数字が淡々と並ぶ。
展示を見ていくと、すでに訪れたダッハウと似ている点、違う点に気づく。ナチス政権と表裏一体をなした強制収容所の非人道性と盛衰が、両者の比較で立体的に浮かんでくる。
ともにナチスの強制収容所システムの中枢であり、ユダヤ人迫害と周辺国への侵略が進むにつれ収容者が増加。独ソ戦でのスターリングラード攻防を境に1943年からドイツ軍の撤退が始まると、周辺国で維持できなくなった強制収容所から収容者が運び込まれ、劣悪な環境で死者が急増。崩壊寸前の45年4月に米軍に解放され、翌月ドイツが降伏した。そんな経緯も同じだ。
だが、ナチス政権が現れた1933年に造られ各地の強制収容所のモデルとなったダッハウと、このブッヘンバルトには違いがあった、ドイツのポーランド侵略で第二次大戦が始まる2年前、ダッハウよりかなり北にできたブッヘンバルトは、戦争そのものにより深く関わっていた。
ブッヘンバルトは強制労働を駆使した兵器廠となった。展示にこうある。
「1943年にスターリングラードで敗れたナチス政権は『総力戦』を掲げた。だが開戦から四年経ち、兵器生産の継続は数百万人の強制労働なしに成り立たなかった(中略)。ブッヘンバルトやその周辺にできた補助収容所は兵器廠となり、SSは銃製造工場を造り軍需産業と密接に協力した」
「労働力不足を補うため、SSとゲシュタポ(秘密警察)は侵略した国々で、抵抗活動を弱める狙いもあって多くの人々を拘束した。1944年秋には、周辺国からブッヘンバルトと補助収容所に送られた人々は9万人に達し、女性も見られるようになった」
「殺人的なテンポ」での鉄道建設にかり出された収容者たちの写真もあった。私が昨日降りたワイマール駅から1943年に引かれた線路を走る蒸気機関車が、ブッヘンバルトまでさらに収容者を運び、SSがそこから補助収容所の工場へ送り込んだ。
例として、ブッヘンバルトから北へ60キロほどの山あいにあるミッテルバウ・ドラ補助収容所が紹介されていた。新兵器のロケットミサイルなどの工場が、空爆を避けるため地下のトンネルにも造られ、強制労働で収容者6万人の三分の一が亡くなった。1944年には米軍がブッヘンバルトの兵器工場を空爆し、収容者約400人に加えSSも100人以上が死亡した。
いかに収容者の命が軽んじられていたかを物語るのが、ポーランドにあった絶滅収容所アウシュビッツとの「往復」だ。こんな説明がされていた。