政情不安の故郷から⽇本へ 。演歌番組で日本語を学び、苦手だった生魚の味も覚えた
2020年08月24日
歴史ある街並みが観光客の人気を集めていた東京、浅草。かつては雷門から浅草寺へと続く仲見世商店街を、土日になると身動きがとれないほどの人が埋め尽くしていた。私も海外から友人が来ると、まず行こうと思いつくのはこの浅草だった。
ところが新型コロナウイルスの感染拡大後、海外からの観光客の入国が困難になり、国内旅行者も激減。通りには、なかなかお客さんがつかまらない人力車がずらりと並んでいた。それでも各店が工夫をこらし、かつてないほど逼迫したこの事態を切り抜けようとしていた。
程よくお腹が空いた午後、この雷門から徒歩数分ほどのビルの二階に店舗を構える「令和寿司」を訪ねた。「いらっしゃい!」と朗らかに迎えてくれたのは、板長のマウン・ラ・シュイさんだ。ここはマウンさんはじめ3人の板前も経営者もミャンマー出身という寿司店なのだ。
かつて「寄席喫茶」として使われていたという店舗は、ステージだったらしい作りを残し、客席には開放感がある。この道24年というマウンさんが腕を振るった寿司は、シャリの握り具合が絶妙で、口の中に運ぶとふんわり解けていく。手際のよさはもちろんながら、一貫一貫、丁寧に握っていくマウンさんの姿に、この仕事にかける情熱をひしひしと感じる。
鮮度抜群の寿司の数々は、「ちゃんと利益は出ているの?!」と心配になってしまうほど手ごろな値段設定だ。「たくさんお客さんに来てもらえれば大丈夫ですよ」と微笑むマウンさんの表情には、味への確かな自信がにじんでいた。メニューの数も豊富で、活しじみのだし巻き玉子は、繊細な味付けが優しく染みこんだ絶品だ。
「自分は“光り物”と貝が一番の好物ですね。あと、岩ガキも今、どんどん美味しくなってきていますし、ホヤも好きです。最初食べたときは匂いが気になっていましたが、その後新鮮でいいホヤを食べたとき、とても美味しいものだと知りました。日本酒も一緒に飲みたくなりますね」
店の日本酒の選定もマウンさんたち自らこだわり、夏酒も種類豊富に取り揃えている。
「寿司令和」がオープンしたのは昨年6月。物件を引き渡された日が5月1日、ちょうど令和の元号が始まった日だったことにちなんで、この名前を付けた。
それから半年以上が過ぎ、ようやく店舗が軌道に乗ってきたところで、新型コロナウイルス感染拡大の波が襲いかかった。7割近くの客足が遠のいた。そんな逆風の中、少しでも店の情報が届くようにと、SNSやYouTubeでの発信など、試行錯誤を重ねている。
マウンさんは農業を営む母、学校の副校長を務める父の元、7人きょうだいの6番目として生まれた。日本で暮らしているのは、マウンさんだけだ。単身来日したのは1996年、27歳のときだった。当時のミャンマーでは軍事政権下の情勢不安で、経済の低迷が続いていた。「将来どんな仕事をしたいかと考える余地もないほど、できる仕事がない、何をしていいのか分からない状況だったんです」。
民主化運動への弾圧も続いていたため、安心して暮らす状況には程遠かった。とにかく海外に出なければと考えていたとき、思い浮かんだのは、アジアの中で一番の憧れだった国、日本だった。
来日後、人づてに情報を集め、手探りで難民申請をした。難民認定は得られなかったものの、人道配慮による在留特別許可を得た。けれどもその結果を得るまでに、7年近くもの歳月がかかってしまった。
その間にも、働き、生きていかなければならない。
東京・高田馬場には、同じようにミャンマーから渡ってきた人々のコミュニティーがあり、その輪の中でお互いに仕事を紹介し合っていた。最初に得た仕事が、寿司カウンターのある和食料理店だった。しかし、故郷で馴染んできた食事は、どちらかというと味が濃く、生魚を食べる習慣もない。
「実は最初に惹かれたのは寿司の味そのものではなかったんですよ。“いやあ、なんでこれを美味しいと感じるのかな”、と思っていたくらい味が分からなかったんです。でも、寿司の見た目は美しいし、何より職人さんが寿司を握ったり、きれいに包丁を扱っている姿がかっこよくて、そんな“形”から入ったんですよね」
その後知人づてに紹介してもらったのが、マウンさんが最初に修行を積むことになる上野の寿司店だった。
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