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ミャンマー出身のマウンさんが20年以上修行を積み浅草で寿司店を開くまで

政情不安の故郷から⽇本へ 。演歌番組で日本語を学び、苦手だった生魚の味も覚えた

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

 歴史ある街並みが観光客の人気を集めていた東京、浅草。かつては雷門から浅草寺へと続く仲見世商店街を、土日になると身動きがとれないほどの人が埋め尽くしていた。私も海外から友人が来ると、まず行こうと思いつくのはこの浅草だった。

 ところが新型コロナウイルスの感染拡大後、海外からの観光客の入国が困難になり、国内旅行者も激減。通りには、なかなかお客さんがつかまらない人力車がずらりと並んでいた。それでも各店が工夫をこらし、かつてないほど逼迫したこの事態を切り抜けようとしていた。

拡大緊急事態宣言下ほどではないものの、以前に比べ人がまばらな仲見世商店街

 程よくお腹が空いた午後、この雷門から徒歩数分ほどのビルの二階に店舗を構える「令和寿司」を訪ねた。「いらっしゃい!」と朗らかに迎えてくれたのは、板長のマウン・ラ・シュイさんだ。ここはマウンさんはじめ3人の板前も経営者もミャンマー出身という寿司店なのだ。

拡大「令和特選寿司セット」を握って下さったマウンさん

情熱をもって一貫、一貫、丁寧に握る

 かつて「寄席喫茶」として使われていたという店舗は、ステージだったらしい作りを残し、客席には開放感がある。この道24年というマウンさんが腕を振るった寿司は、シャリの握り具合が絶妙で、口の中に運ぶとふんわり解けていく。手際のよさはもちろんながら、一貫一貫、丁寧に握っていくマウンさんの姿に、この仕事にかける情熱をひしひしと感じる。

拡大手前がボリュームたっぷりの「令和特選寿司セット」

 鮮度抜群の寿司の数々は、「ちゃんと利益は出ているの?!」と心配になってしまうほど手ごろな値段設定だ。「たくさんお客さんに来てもらえれば大丈夫ですよ」と微笑むマウンさんの表情には、味への確かな自信がにじんでいた。メニューの数も豊富で、活しじみのだし巻き玉子は、繊細な味付けが優しく染みこんだ絶品だ。

拡大出汁の細やかな味わいがたまらない「活しじみのだし巻き玉子」

 「自分は“光り物”と貝が一番の好物ですね。あと、岩ガキも今、どんどん美味しくなってきていますし、ホヤも好きです。最初食べたときは匂いが気になっていましたが、その後新鮮でいいホヤを食べたとき、とても美味しいものだと知りました。日本酒も一緒に飲みたくなりますね」

 店の日本酒の選定もマウンさんたち自らこだわり、夏酒も種類豊富に取り揃えている。

 「寿司令和」がオープンしたのは昨年6月。物件を引き渡された日が5月1日、ちょうど令和の元号が始まった日だったことにちなんで、この名前を付けた。

 それから半年以上が過ぎ、ようやく店舗が軌道に乗ってきたところで、新型コロナウイルス感染拡大の波が襲いかかった。7割近くの客足が遠のいた。そんな逆風の中、少しでも店の情報が届くようにと、SNSやYouTubeでの発信など、試行錯誤を重ねている。

拡大店内に掲げる「おすすめ品」も、日々心を込めて書いている

政情不安のミャンマーから憧れの国の日本へ

 マウンさんは農業を営む母、学校の副校長を務める父の元、7人きょうだいの6番目として生まれた。日本で暮らしているのは、マウンさんだけだ。単身来日したのは1996年、27歳のときだった。当時のミャンマーでは軍事政権下の情勢不安で、経済の低迷が続いていた。「将来どんな仕事をしたいかと考える余地もないほど、できる仕事がない、何をしていいのか分からない状況だったんです」。

 民主化運動への弾圧も続いていたため、安心して暮らす状況には程遠かった。とにかく海外に出なければと考えていたとき、思い浮かんだのは、アジアの中で一番の憧れだった国、日本だった。

 来日後、人づてに情報を集め、手探りで難民申請をした。難民認定は得られなかったものの、人道配慮による在留特別許可を得た。けれどもその結果を得るまでに、7年近くもの歳月がかかってしまった。

生きていくため、寿司屋で修行

 その間にも、働き、生きていかなければならない。

 東京・高田馬場には、同じようにミャンマーから渡ってきた人々のコミュニティーがあり、その輪の中でお互いに仕事を紹介し合っていた。最初に得た仕事が、寿司カウンターのある和食料理店だった。しかし、故郷で馴染んできた食事は、どちらかというと味が濃く、生魚を食べる習慣もない。

 「実は最初に惹かれたのは寿司の味そのものではなかったんですよ。“いやあ、なんでこれを美味しいと感じるのかな”、と思っていたくらい味が分からなかったんです。でも、寿司の見た目は美しいし、何より職人さんが寿司を握ったり、きれいに包丁を扱っている姿がかっこよくて、そんな“形”から入ったんですよね」

 その後知人づてに紹介してもらったのが、マウンさんが最初に修行を積むことになる上野の寿司店だった。

 当時はマウンさんのように、寿司店などで洗い物や仕込みなど、裏方の仕事をこなすミャンマーの人たちも多かったという。修行先の板長である親方は厳しい人だった。

 「まず、包丁の使い方の作法からして私たちとは違います。日本だと先っぽを相手に向けて包丁を渡したりしないですよね。故郷にいたときは気にしたことがありませんでした。食材を切る時も、日本では包丁を手前に引いて切りますが、ミャンマーでは逆です」

 マウンさんはこっそり、仕事の合間を縫って寿司を握る練習を続けていた。「ある時、“できるようになったのか?”と親方に声をかけられてやってみると、やっぱりプロの握りと自分のものでは全然違うんですよ」。こうして実践を重ねる度に、寿司の奥深さ、繊細さを身をもって実感したという。

拡大当時の親方にはじまり、マウンさんは握りの技術を地道に、そして着実に学んできた

演歌番組を録画して日本語を勉強

 当時は寿司店のメニューで食べられる食材といえば、エビやアナゴ、サーモンなど、限られたものだけだった。ある時、親方に「お前、自分で食べない、味が分からないのにお客さんに出すな!」と厳しくしかられたことがあった。確かに、自分が美味しいと思えないものを、お客さんが食べて喜ぶだろうか……。それはマウンさんにとって、決定的な一言だったという。

 それからは苦手なものも食べ続け、少しずつ味を覚えるようになった。思えば親方は、日本人、外国人という分け隔てなく厳しく、「外国人だから」と辛く当たることもなかった。

 仕事で忙しい日々を過ごしながらも、日本語の学習は欠かさなかった。学習といっても、学校に通って机に向かえるわけではない。

 「例えば子ども向けの漫画を読んだり、アニメを見たりして学んでいました。勉強しやすいと思ったのは、NHKの演歌番組。それを全部録画して、休みの日に見ていました。演歌はゆっくり歌ってくれるし、字幕もついています。けれども日常的に使わない昔の言葉も出てくるので、辞書で調べてみても、書いてない言葉が多かったんですよね」と笑う。

拡大「寿司令和」では、海外からのお客さんでも注文がしやすいよう、オーダーフォームには英語も併記している

改正入管法施行の年に「寿司令和」を開店

 働きはじめて3年が経つ頃には、人前で少しずつ寿司を握れるようになっていた。握りの技術には自信があったものの、初めの頃はいざ人前に出ると、緊張で手がいつものように動かなくなることもあった。当時は外国人に対し、厳しいお客さんも少なくなかったという。「“なんでガイジンが”と言われたこともありました。けれどもそれより、励みの声の方が多かったんです。“頑張ってね”と応援してくれた多くのお客さんに支えられました」

 他の店のやり方も学ぼうと数店舗を渡り歩き、それぞれの手法を学んだ。独立を考えるようになったのは7年ほど前からだった。「でも、まだ外国人が日本で寿司屋をやるなんて、お客さんに受け入られないのではないかとその時は感じていました。周りの見る目の厳しさを考え、躊躇(ちゅうちょ)していたんです」

 「寿司令和」が開店した昨年は、改正入管法が施行された年でもある。マウンさんと同郷の若い移住者も増え、中には日本でずっと生活していきたいと思っている次世代もいる。五輪の開催も控え、様々なルーツの人々が増えている中、外国人の商売に対して昔ほどの警戒感はないのではないか、と変化の波を感じていた。

 「きっとミャンマーに帰って店を開いた方が、楽だったと思うんです。でも、寿司の本場はここ日本です。自分たちはここまでやってきたんだし、恐いことはない、自分たちが今まで積み重ねてきたことを着実にやっていけば、きっと大丈夫だ、と思えるようになったんです」

拡大「二階に店を構えるのは、下から店内が見えないから不利では」と最初は心配されたという。食べに来たお客さんの口コミが、店の後押しとなった

 10人ほどのミャンマー人たちで出資し合い、法人を設立することになった。けれども物件探しは容易ではなかった。立ち上げたばかりの外国人の法人となると、貸す側が慎重になってしまうようだった。新宿や四谷の物件に当たっていたもののうまくいかず、ようやく見つけたのが、今の浅草の店舗だった。「寿司令和」の運営法人の代表を務めるトエエモンさんは、当時の心境をこう語った。

 「もちろん、不安がなかったわけではありません。何か新しいことをやろうとしたら、リスクがあるのは当然だし、最後はどれくらい自分たちが覚悟できるかです。材料の調達や味には、自信がありましたから」。

拡大一貫一貫、真心を込めて握っていくマウンさん

最初は警戒。ランチで評判が上がって……

 「寿司令和」で使う魚は、板前たち自ら市場に仕入れに行き、鮮度を見極める。朝早くに仕入れに行き、その後仕込みをしながらランチタイムの準備をし、夜の営業もこなしていく。仕入れは3人の板前が交代で行っているとはいえ、忙しい日々が続く。こうして自分たちなりのこだわりを貫いてきた分、お客さんの反応には確かな手ごたえを感じているという。浅草という伝統ある街の中での受け止めはどうなのだろうか。

 「最初は警戒されていた感じがして、二階の店舗まで上がってきてくれる人は少なかったんです。“まずはランチで試してみよう”とやってみたら、来てくれたお客さんから“美味しい”と口コミが広がっていったんですよ」とマウンさんは胸を張る。SNSに書き込まれる地元の人々からの評判も上々だ。

拡大オリジナルメニュー「雷丼」。あぶった魚やホタテが香ばしい

 改正入管法で、外国人労働者の受け入れを拡大していく動きがある一方、働く環境が十分に整っていないという課題も浮き彫りになってきた。トエエモンさん自身も、就職活動中やIT企業に勤めていた時代、いくつもの「壁」に突き当たってきたという。

 「僕が働いていていた会社でも、“ここで働いていても先がない”とやめてしまう外国人の社員たちがいました。実力があっても、出身の違いが壁となり、管理職など重要なポジションに中々つけないんです。海外の会社では、外国人がトップについて業績があがっているところもありますし、それぞれができることをフェアに評価することはプラスになると思います。最近、日本も変わってきましたが、変わることで損をすることはないと思うんです」

拡大お店独自の工夫も欠かさない。「スパイシー巻き」はミャンマーと日本の味が融合したオリジナルメニューだ

本場の日本で、さらなる挑戦を

 マウンさん自身は「昔よりは外国人が生活しやすくなってきた」と感じているという。だからこそこれからを担う次世代と共に、さらなる挑戦を日本で重ねたいと思っている。「今後は店舗を増やし、寿司店や飲食店で働きたい若い人たちをサポートしていきたいんです」と、将来の展望を描く。

 コロナ禍で飲食店にとっても苦しい状況が続く中、「寿司令和」にはインターネット上の応援チケットを通し、多くのサポートが集まった。「顔も知らないお客さんたちが快く応援してくれたんです。やっぱり、困っている時に優しい人が多いな、と改めて実感しました」と、マウンさんは和やかに語る。

 コロナ禍では様々な分断が叫ばれる。しかし、そこから生まれた共感も確かにあるのだ。そんな「食」を通した共感の種を、今日もマウンさんたちは蒔き続けている。

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筆者

安田菜津紀

安田菜津紀(やすだ・なつき) フォトジャーナリスト

1987年神奈川県生まれ。Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。写真絵本に『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)、著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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