日本の女性の厳しい状況を是正しなければ男女共倒れに
2020年08月28日
The Economistの東京支局長だったビル・エモットは2019年に『日本の未来は女性が決める!』を刊行した。裏を返せば、「ニッポン不全」の背後に、旧態依然たる「男性支配」があり、それが日本の「失われた20年」に日本の閉塞感をより深刻化させたということか。
まず、あまり知られていない女性の話からはじめよう。それは、楠瀬喜多(くすのせ・きた)という人物である。この女性を記念する「婦人参政権発祥之地」という記念碑(写真)が筆者の住んでいる高知市上町2丁目にある。龍馬生誕碑からも100メートルほどの距離にあるこの碑にはつぎのような記述がある。
「自由民権運動の高まりの中で明治11年(1878)楠瀬喜多は男女同権の理を論拠に投票を要求した。喜多の願った婦人の選挙権・被選挙権は2年後、土佐郡上町町会の闘いにより上町町会規則に規定、続いて小高坂村にも実現し権利が行使された。「男女同権ハ海南の某一隅ヨリ始ル」と当時の高知新聞は絶賛。先人たちの偉業を顕彰し、ここに上町町会跡に碑を建てる」
38歳で夫と死別した喜多は、明治11年(1878年)、区会議員選挙で、「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないのはおかしい」として県に抗議、さらに内務省に訴え出る。当時、上町には龍馬の甥、直寛が住んでおり、こうした人々の支持を得て、上町町議会は1880年、20歳以上の戸主であれば男女を問わず選挙権、被選挙権を認めた。当時、各議会は独自の規則を定めることが可能で、坂本直寛らが県令(いまの知事)を屈服させたのだという(「「民権ばあさん」扉開く」朝日新聞2016年12月13日付)。
一説によれば、当時、世界で女性参政権を認めていたのは米国のワイオミング州だけであり、上町とそれに次ぐ、隣の小高坂村の例は世界で2番目に女性参政権を実現したものであった。ただ、明治17年(1884年)になると、区町村会法が改正されて、規則制定権が区町村から奪われたために女性の選挙権や被選挙権は消滅してしまう。
ついでに、米国での女性参政権の確立にはスペイン風邪の流行が関係していたという話を紹介しよう。国政レベルでは米国よりも英国が先行した。2015年につくられた映画「未来を花束にして」(原題は女性参政権論者を意味するSuffragette)を観ればわかるように、1910年代から英国での参政権を求める運動が展開された。1914年の第一次世界大戦に、こうした運動家が国のために看護師などとして積極的にかかわったことから、1918年に女性参政権の扉が開かれる
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