最高権力者の病の背後でうごめく権謀術数。歴史に学び今を読み解く
2020年09月03日
2020年8月、本来なら二度目の東京オリンピックが開催され、日本中がわいていたはずだった。だが現実は、年のはじめから感染が拡大した新型コロナウイルスの影響で、オリンピックをはじめ様々な行事が延期されるなど、パッとしない空気が漂っている。
そこにふってわいたような安倍晋三首相の突然の辞任表明である。理由は持病の潰瘍性大腸炎の再発だという。病で首相の職務をまっとうできないと安倍首相は説明した。政界は自民党新総裁、そして新しい首相選びへと日々、動いている。
日本の政治史を振り返ってみると、首相の病を引き金に、政治が動くことがある。一度目の東京五輪があった1964(昭和39)年もそうだった。病に倒れたのは、4年超の長期政権を担い、高度成長を成し遂げた池田勇人首相だ。
オリンピックが開会された10月10日、池田はオリンピック開会式に病院から出席した。8月に喉の異常が発見され、9月9日に入院、同25日「前がん状態」と発表していたからである。
池田は病室のテレビでオリンピックを楽しみ、マラソンの円谷幸吉選手の3位入賞を喜んだ。10月24日の閉会式を欠席し、翌25日に辞意を表明した。そこから後継総裁選びが始まり、2週間後の11月9日に池田首相は佐藤栄作を後継者に指名した。佐藤の長期政権の始まりであった。言うまでもなく、佐藤は安倍首相の大叔父にあたる。
池田首相は辞任を表明する3カ月前の7月10日に、自民党総裁選で3選を果たしたばかりだった。この時の対抗馬は佐藤栄作と藤山愛一郎である。
投票結果は、総数478票のうち、池田が242票、佐藤160票、藤山72票だった。池田は過半数をわずかに超えたのみだった。勝利した池田は、池田を支持した河野一郎を副総理兼国務大臣(東京オリンピック担当)に任命した。佐藤と藤山は入閣しなかった。
直近の総裁選挙が近すぎたために、次の後継者を総裁選挙で決定するのは現実的でないと考えられた。三木武夫幹事長が提案した「話し合い―後継指名」という方式に従い、河野、佐藤、藤山の3人が池田後継を争った。このうち、直近の総裁選で2位につけた佐藤か、池田政権後半を支えた河野が有力と考えられた。
自民党で調整役を担ったのは三木幹事長と川島正次郎副総裁であった。彼らは党内の意見を聞きつつ、三木幹事長は佐藤に期待を持たせ、川島副総裁は河野を支持するような動きを見せていた。渡邉恒雄によれば、これは「分業」であった(御厨貴監修『渡邉恒雄回顧録』中公文庫、2007年、263頁)。
実際は、川島副総裁は初期の段階から「世間の常識の線というものは崩されるものではないよ」と語っていた(富森叡児『戦後保守党史』現代教養文庫、1994年、183頁)。直近の総裁選で2位につけた佐藤が落としどころであることを示唆したのだろう。
佐藤勝利の背景として、池田の病室に詰めていた大平正芳(池田派)と、田中角栄(佐藤派)のラインが機能したことがあげられる。刊行された『佐藤栄作日記』(朝日新聞社)には、次のように記されている。
「田中蔵相と会う。首相の病を巡り政局急変の様子あり。よってその指名を得べく大平、前尾を説得する要ありと云う。余も勿論賛意を表し、来月の10日乃至15日位を目途として(今月)25日の医者の総合判断後、退陣を決意さし、その指名をかちおる様努力の事、併せて前尾、大平の団結によりこの方途を講ずべしと云う。」(1964年10月21日)
つまり、佐藤派は池田首相の辞意表明の前、オリンピック期間中から動いていたのだ。しかも、11月10日か15日頃を目途に後継者指名(実際は9日)と、その後のスケジュールまで見通していた。
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