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首相が病で倒れると何が起きるのか?~1964年東京オリンピックの裏で

最高権力者の病の背後でうごめく権謀術数。歴史に学び今を読み解く

小宮京 青山学院大学文学部教授

調整役の動向

 自民党で調整役を担ったのは三木幹事長と川島正次郎副総裁であった。彼らは党内の意見を聞きつつ、三木幹事長は佐藤に期待を持たせ、川島副総裁は河野を支持するような動きを見せていた。渡邉恒雄によれば、これは「分業」であった(御厨貴監修『渡邉恒雄回顧録』中公文庫、2007年、263頁)。

 実際は、川島副総裁は初期の段階から「世間の常識の線というものは崩されるものではないよ」と語っていた(富森叡児『戦後保守党史』現代教養文庫、1994年、183頁)。直近の総裁選で2位につけた佐藤が落としどころであることを示唆したのだろう。

拡大池田勇人首相の後継自民党総裁をめぐって、総裁候補の藤山愛一郎氏(中央)と会談する三木武夫幹事長(右)、川島正次郎副総裁(左)=1964年10月30日、東京・平河町の自民党本部総裁室

オリンピック期間中から動いた佐藤派

 佐藤勝利の背景として、池田の病室に詰めていた大平正芳(池田派)と、田中角栄(佐藤派)のラインが機能したことがあげられる。刊行された『佐藤栄作日記』(朝日新聞社)には、次のように記されている。

 「田中蔵相と会う。首相の病を巡り政局急変の様子あり。よってその指名を得べく大平、前尾を説得する要ありと云う。余も勿論賛意を表し、来月の10日乃至15日位を目途として(今月)25日の医者の総合判断後、退陣を決意さし、その指名をかちおる様努力の事、併せて前尾、大平の団結によりこの方途を講ずべしと云う。」(1964年10月21日)

 つまり、佐藤派は池田首相の辞意表明の前、オリンピック期間中から動いていたのだ。しかも、11月10日か15日頃を目途に後継者指名(実際は9日)と、その後のスケジュールまで見通していた。

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筆者

小宮京

小宮京(こみや・ひとし) 青山学院大学文学部教授

東京大学法学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は日本現代史・政治学。桃山学院大学法学部准教授等を経て現職。著書に『自由民主党の誕生 総裁公選と組織政党論』(木鐸社)、『自民党政治の源流 事前審査制の史的検証』(共著、吉田書店)『山川健次郎日記』(共編著、芙蓉書房出版)、『河井弥八日記 戦後篇1-3』(同、信山社)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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