民衆が自らの力を自覚してしまうことを、権力は恐れてきた
2020年09月01日
安倍政権、この無惨なるものを支えてきた制度・機関の筆頭としてマスメディアを挙げなければならない。数年前、とあるシンポジウムで大谷昭宏氏(元「読売新聞」社会部)と同席したことがあったが、その時大谷氏は次のように語った。
「安倍政権が言論統制していると言われているが、ナンセンスだ。権力がメディアに圧力をかけるのは当たり前のことで、安倍政権のやり方は大変に露骨で稚拙だ。こんな程度の低い抑圧を弾圧だの統制だのと言ってしまったら、もっと巧妙な抑圧と戦ってきた先輩たちに、草葉の陰から笑われてしまう」と。
その通りだと思う。この7年余りの間、報道への圧力は高まったが、そのやり方はあまりにもあからさまなものであり、それだけに跳ね返すことは困難ではないはずだった。圧力を受けている事実を率直に報道すればよかったのである。
しかし実際のところ、メディアは後退に後退を重ねた。「クローズアップ現代」(NHK)の国谷裕子氏は降板させられ番組は模様替え、「報道ステーション」(テレビ朝日)も古舘伊知郎氏が降板となり熟練スタッフは総解雇された。NHKの「7時のニュース」に至っては、ほとんどフィクションに近くなり、明らかに崩壊している総理の国会での答弁をあたかもまともな答弁をしたかのように見せかける編集技術は、達人の妙技と呼ぶべき域に達した。
帰責されるべき層は二つあると考えられる。ひとつには、メディア機関の経営幹部層である。本来彼らは、権力からの圧力から現場を守る役割を負っている。しかし、安倍から会食に誘われた回数を競い合うようになった幹部連中に、そのような役割の自覚などあるはずがなかった。ジャーナリストとしての矜持などとうの昔に失い(あるいは最初から持っていなかったのか)、大層な肩書のみを追い求めて長年ヒラメ生活をしてきたサラリーマン・メディア人の成れの果ての姿がそこにはある。海外のジャーナリストからこのような日本のメディア人の行動に対して驚きの声が寄せられても馬耳東風。トップの座に就いても習い性になったヒラメ行為はやめられないのである。
そして、経営トップの権力との癒着・忖度は、その下で働く者たちの層へトリクルダウンする。ヒラメがヒラメをヒラメし、ヒラメがヒラメからヒラメされる。ヒラメがヒラメを引き上げ、ヒラメがヒラメから引き上げられる。大マスコミ各社は、さながらヒラメの養殖場と化したかのようだ。
この現象が集約されたのが、各社の政治部である。事前に通達された質問に対し、これまた事前に準備された回答を読み上げるだけの総理記者会見は、「『台本』営発表」と揶揄され、官邸詰めの記者たちは「劇団記者クラブ」と蔑称されるまでに至った。公人から本音を聞き出すために、公人と接近して情報を取るという日本独特のメディア人と権力者の「親密さ」は、安倍政権の7年余りの間に権力とその監視者との間にあるべき緊張感を完全に失い、政治部は政府の公式見解の伝動ベルトへと堕してきた。
南彰氏(「朝日新聞」記者、新聞労連委員長)は、この惨状のなかで味わってきた苦悩を率直に綴り、どのような自己変革がメディアに求められているかを真摯に考察している。彼は、次のように書いている。
迷っていた時、政治記者の大先輩から言われたことを思い起こした。
「君、大丈夫なのか。〝まともな政治記者〟として出世できなくなるよ。変えるためには権力を取らないといけないんだから」
心配はうれしかったが、「まともな政治記者」という言葉で迷いが断ち切れた。(南彰『政治部不信――権力とメディアの関係を問い直す』朝日新書、2020年)
自分の持っている「まともさ」の基準が狂っていることにいまだに気づけないメディア人が、おそらくは多数派なのである。「権力を取って変える」といった李登輝気取りの言辞が、今日どれだけアホらしい戯言に聞こえるか、想像もつかないのであろう。メディアの退却は、大手報道機関に蔓延るこうした空気によるものであった。
上に述べてきた退却、堕落の延長線上に、安倍首相辞意表明の過程においてメディアが果たした役割の問題性がある。安倍が健康を害してきており、政権を投げ出すのではないかという観測が広がり始めたのは、7月頃であっただろうか。確かに、安倍の表情からは生気が失われ、足取りは重く、いかにも体調が思わしくない様子が見て取れるようになった。
そして、8月半ば過ぎから局面は一気に動き始める。8月16日に、盟友甘利明が
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