新政権の発足で沖縄政策は変わるのか?
2020年09月07日
憲政史上最長の約7年8カ月月続いた第2次安倍晋三政権は、病気を理由とする首相の辞任表明により、あっけなく終焉を迎えることになった。
安倍政権については、様々な側面から様々な評価があり得るだろう。長期にわたる政権運営によって日本政治に安定をもたらしたこと、アベノミクスによって株価を上昇させたことなどが評価される一方で、ロシアとの北方領土問題や北朝鮮による拉致問題で結果を出せなかったことや、森友・加計学園などの疑惑が批判されている。
今なお在日米軍専用施設の7割が集中し、普天間飛行場の辺野古移設問題が争点となり続けている沖縄に対する政策については、どのように評価できるだろうか。
安倍政権は、沖縄に対しては、特に米軍基地の問題をめぐって、歴史上かつてなく厳しい政権だったといえる。
普天間飛行場の辺野古移設問題をめぐっては、いくつもの知事選挙や国政選挙、さらに県民投票で示された多くの沖縄県民の反対の意思の表明にもかかわらず、「唯一の解決策」だとして辺野古新基地建設工事を強行した。東村高江のヘリパット建設でも、機動隊を投入して反対派の市民を排除して建設を進めた。
沖縄県内の多くの反対を力でねじ伏せるような安倍政権の政治手法から、日本政府と沖縄県の対立は激化し、日本本土と沖縄との間の分断が深まった。そもそも、故翁長雄志知事が主導して構築した、沖縄が保革対立を越えて辺野古移設に反対して日本政府と対峙するという「オール沖縄」と呼ばれる政治勢力が生まれた直接の背景には、安倍政権の強硬な姿勢があった。沖縄から見ると、第2次安倍政権期とは、日本政府と「オール沖縄」が鋭く対立した時代だった。
多くの沖縄県民は、自分たちの意思に反する政策が繰り返されるなか、安倍首相の表現を借りれば、「悪夢のような」約7年8カ月だったと感じているのではないだろうか。
もちろん、北部訓練場の一部返還や沖縄振興予算など、安倍政権が沖縄について何もしなかったわけではない。しかし、それらは「アメとムチ」としばしば言われるように、前述の強硬策とセットとなり、辺野古新基地建設を進めるための懐柔策としての側面が強かった。
なにより、それらの政策は、表面的なもので、歴史に由来する沖縄県民の「魂の飢餓感」(故翁長雄志沖縄県知事)を癒すもの、言い換えれば、長年にわたって沖縄に基地負担を押し付けてきた日米安保体制の構造のなかで、沖縄県民自身がその負担軽減を実感できるものではなかった。安倍首相は繰り返し「沖縄に寄り添う」という言葉を使ったが、この7年8カ月で、もはや使うのがはばかられるほど空虚な言葉になった。
安倍政権の沖縄政策の背景には何があるのか。次の四点が指摘できるだろう。
第一に、民主党政権との違いをアピールすることである。
安倍首相が繰り返し使った「悪夢のような民主党政権」「日本を取り戻す」というキャッチフレーズは、いずれも民主党政権が日本の政治や経済を混乱させたとして批判するものだった。第2次安倍政権は、外交・安全保障政策や経済政策、また危機管理について、民主党政権と違うということを最大のアピールポイントとして政権運営を行ってきた。
2009年に発足した民主党の鳩山由紀夫政権が、普天間飛行場の辺野古移設計画を「最低でも県外」へと見直すことを公約としながら、実現できずに国内外で批判されたことは、安倍政権にとって大きな反面教師であった。辺野古移設計画を一貫して推進することは、安倍政権が民主党政権とは違うことを示す象徴的な政策だった。
第二に、その政治手法である。
第2次安倍政権は、「安倍一強」と呼ばれる強力な政治基盤を背景に、反対意見を許さず、内外において「敵をたたく」というスタイルをとってきた。このスタイルは、辺野古移設問題での沖縄県、特に「翁長県政」との対立において顕著であった。前述の「アメとムチ」の「ムチ」である。
安倍政権は、政権の意向に逆らう沖縄県を「たたく」という姿勢を露骨に国内で示し、それは反対を抑え込むための「見せしめ」ともいうべきものであった。辺野古新基地建設反対を掲げて沖縄県知事に当選した翁長雄志氏に対し、安倍首相は4カ月もの間、会おうとしなかった。
この時の怒りを、翁長氏は後々まで語っている。
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