分断の時代に適合したナショナリズムと政府主導の経済運営のミックスで長期政権を実現
2020年09月07日
安倍晋三首相が辞任を表明した。先日、連続在任期間で大叔父の佐藤栄作元首相を抜き、通算でもすでに桂太郎元首相を上回っている。文字通り、近代日本における最長政権である。
しかし、その最長政権が日本政治にもたらしたものはいったい何であったのか、ここできちんと総括しておくことが必要だろう。本稿ではとくに戦後日本における保守主義という視点から、この問題を考えてみたい。
いうまでもなく、安倍首相は保守主義者を自認する政治家である。しかし、いかなる意味において、安倍首相が保守的であるかは自明ではない。
日本では、吉田茂元首相の流れをくむ政治的系譜を指して、「保守本流」という言葉がしばしば用いられる。それでは安倍首相の保守は、このような「保守本流」といかなる関係に立つのだろうか。
拙著『保守主義とは何か』(中公新書)でも整理したように、1955年、自由党と日本民主党が合同して成立した自民党には、異なる政治的志向をもつ集団が明らかに併存していた。なかでも重要なのは、軽武装・経済国家を目指す吉田の路線と、ナショナリズムへの志向をより強く持つ岸信介元首相の路線である。
前者が、軍事力よりはむしろ経済力を重んじ、日米安保体制の下、自由な経済活動を重視したとすれば、後者は安保改定でアメリカに対してより対等な関係を求めたように、日本の独立を強く求め、自主憲法の制定を主張した。そして、しばしば「保守本流」と呼ばれたのは吉田の路線にほかならない。
前者の流れが、池田勇人から大平正芳へとつながる派閥、「宏池会」へと継承されたのに対し、後者の流れは岸から福田赳夫の派閥、「清和会」に受け継がれた。両者の中間にあったのが、吉田の愛弟子でありながら、岸の実弟でもあった佐藤栄作の派閥に起源を持つ、田中角栄から竹下登へと引き継がれた(後の)「経世会」の流れであった。
これら三つの派閥のうち、高度経済成長期からそれ以降にかけて優位だったのは、経世会と宏池会の連合であった(田中角栄と大平正芳の親密な関係に象徴される)。清和会の流れは、劣位に立たされ続けた。
背景にあったのは経済成長と冷戦体制である。そのような時代においては、強いナショナリズムへの志向を持つ清和会よりも、経済主義的で公共事業による再分配を得意とした経世会・宏池会連合の方が適合的であった。
こうした状況が大きく転換したのが、1989年の冷戦終焉であった。アメリカの軍事的支援を自動的に期待できた時代は終わり、日本は独自の安全保障政策を求められるようになった。この時期、バブル経済の崩壊によって経済成長の時代が最終的に終わりを迎えたことと合わせ、戦後政治の「大前提」が大きく崩れたのである。
1990年代は「政治改革」の時代になったが、この時期に経世会が分裂し、宏池会の存在感が次第に低下したことは偶然ではないだろう。アメリカの軍事的支援の下、経済に専念することができた戦後日本の「保守本流」の時代は、「大前提」が崩壊によって終わりを迎えたのである。
2000年以降には、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫と清和会出身の首相が続く。これらの首相の個人的プロフィールや政治理念は様々であるが、経世会が分裂し、宏池会が地盤沈下したことの必然的な結果であった。
このうち、とりわけ安倍首相は、より明確にナショナリズムへの志向を強くもった。それは岸信介元首相の孫であるという出自にも由来するであろうし、北朝鮮による拉致問題、そして中国の軍事的・経済的大国化という、日本をめぐる東アジアの国際状況の変化を受けた結果でもあったはずだ。
安倍首相の保守主義とは、戦後日本の「保守本流」とは大きく異なる。
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