松下秀雄(まつした・ひでお) 朝日新聞山口総局長・前「論座」編集長
1964年、大阪生まれ。89年、朝日新聞社に入社。政治部で首相官邸、与党、野党、外務省、財務省などを担当し、デスクや論説委員、編集委員を経て、2020年4月から言論サイト「論座」副編集長、10月から編集長。22年9月から山口総局長。女性や若者、様々なマイノリティーの政治参加や、憲法、憲法改正国民投票などに関心をもち、取材・執筆している。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
首相が代わるいま、見つめ直したいこと
米国ではいまも、原爆投下を正当化する意見が根強い。戦争を終結させるために必要だった。投下しなければ戦争が続き、数多くの米国の若者が犠牲になるところだった、と教えられるからだと聞く。
根っこにあるのは、「敵」と「味方」を二分し、「『敵』を殺さなければ、『味方』が殺される」とする考え方である。
しかし、銃口を向けている相手は、鬼畜のような「敵」なのか? 私が知るVFPのメンバーは、そこに疑問をもった人たちにみえる。
たとえば2015年に米国で取材したダグ・ローリングスさんは、ベトナム戦争に派遣されていたころ、仲間とともに何度もベトナム人の村を訪ねた。軍服を脱ぎ、武器を置いて村に入ると、そこは老人と女性と子どもばかり。武器を持たないダグさんたちがめずらしかったのか、年老いた村人が「お茶を飲みにこい」と声をかけ、クッキーのようなお菓子もふるまってくれた。
「敵」との交流を上官に知られれば、それじたい事件になってしまう。その危険を冒してまで訪ねたのは、「グーク」という蔑称で呼ばれていたベトナムの人たちも、同じ「人間」であることを確認するためだったという。
「人」を殺せば、ふつうは罪に問われる。一方、国家のためにおおぜい「敵」を殺せば、英雄扱いされる。しかし、人間の命を奪うことに変わりはないし、そこには自分に刃を向けていない非戦闘員もふくまれる。敵対する国家のくびきから離れ、純粋に人間どうしとして向き合ったとすれば、痛みを与えたことをわびるのは当たり前すぎる行為ではないか。
国家の一員か、ひとりの人間か。どちらの立場で相手を見つめ、行動するかが分かれ道となる。国の指導者はしばしば前者に傾いて、後者を忘れがちになる。
そのVFPが、原爆投下から75年のこの夏に催した大会のテーマは核と人権だった。
当初は、米国・ニューメキシコ州で開催する予定だった。原爆を開発したロスアラモス国立研究所があり、1945年7月16日、広島・長崎への投下に先立って初の核実験がおこなわれたその地である。
同時に、「ゴールデン・ルール号」が、ハワイからマーシャル諸島を経て、広島・長崎を訪れる計画だった。1958年、マーシャル諸島での核実験を阻止するため、4人の米国人がこの小さなヨットに乗って、実験海域に突入しようとした。沈んでいたその伝説の船をVFPが引き揚げ、修復していた。
「敵」を倒すための核兵器は、米国やマーシャル諸島の実験場でも使われ、自国民や現地住民を被曝させてきた。広島・長崎とあわせ、核の現実をみつめるのに格好の舞台設定だろう。
残念ながら、新型コロナの影響で、予定したかたちでの大会開催はかなわず、オンラインでの開催となった。ただ、そのおかげで日本にいても大会の一部を取材することができた。オンライン開催に気づくのが遅れ、私が聴けたのは最終日だけだったけれど。