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リベラルの敵はリベラルにあり~対立ではなくオルタナティブの政治は可能か

「法の支配」や「立憲主義」に徹底的にこだわるべきリベラル勢力があまりにも弱く…

倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)

ヘア-サロンの入り口に貼られていた紙。「さっさと店閉めて緊急事態宣言が終わるまで家で大人しく寝ててください。次発見すれば、通報します」などと書かれていた=2020年5月20日、大阪市中央区

 9月16日、7年8カ月におよんだ安倍晋三政権が幕を閉じた。歴代政権最長となったこの政権は、日本の民主主義や立憲主義のなかで、“それはやらない約束”であった「柔らかいガードレール」とでも呼べるルールを、ことごとく破壊した。集団的自衛権の行使容認、共謀罪審議における「中間報告」での採決、検事長の勤務延長に関する諸々のこと、さらに公文書管理や文書改ざんや私的な利益誘導……。権力の「横暴」「弛緩」に起因する数々の問題が残された。

 安倍首相が権力の座から去った今、こうした問題を事後的に検証し、改善することはもちろんだが、そこで炙り出された日本の民主主義及び立憲主義における制度的欠陥もまた検証し、改善せねばならない。前者の安倍政権固有問題も、後者の普遍的な我が国のシステムのバグも、どちらもタブーなしで向き合う必要がある。

心もとない日本のリベラル勢力

 我が国のシステムのバグについて言うと、集団的自衛権の行使にしろ検察庁法の問題にしろ、我が国の司法制度では真正面からこれを争うシステムはない。また、憲法53条に基づく臨時国会の召集要求し内閣が無視しても、強制的に開かせるシステムはない。日本の統治システムは、「善き統治者」でによって機能する「人の支配」的な側面が強く、いわゆる「法の支配」とは対極にある。

 では、「法の支配」ははなぜ大切なのだろうか。その究極の目的が、われわれ「個人」一人ひとりの自律的な生の構想と自由の行使を保障するからに他ならない。それは、個人の自由や権利を守るため、国家権力を憲法で制限し、法による政治を行おういう立憲主義とも通底する。

 そして、雑ぱくにいえば、なによりこの個人の自由の価値を深化させこれをあらゆる手段で確保する企てが、リベラルな立場である。それゆえ、リベラルこそ「法の支配」や「立憲主義」に徹底的にこだわらなくてはならない。ところが、リベラルであると標榜する勢力が近年、はなはだ心もとない。それどころか、そもそも我が国には真にリベラルな勢力は存在するのだろうかという思いすら抱く。

 筆者は、近代立憲民主主義社会において、リベラルの概念が抱える自己矛盾に満ちた問題点や、日本政治におけるリベラルが抱える病理を、近著『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)で詳しく論じた。リベラルや永田町を中心とした「政治的なるもの」の生態の分析にとどまらず、AIやアルゴリズムに支配される「データ・グローバリゼーション」によって、今まで自明なものとされてきたリベラルな「個人」や「自己決定」の概念、ひいては「主権」さえも維持できるのかといった点まで踏み込んで分析、解決策を提示した。

 アルゴリズムに「先回り」をされ、「自分のような人」が形成されるデータ空間で「個人の尊厳」を語るには、データ基本権の創設や思想良心の自由(19条)、表現の自由(21条)のアップデートが必要かもしれない。そこでは憲法改正の議論が避けて通れないが、憲法改正をタブー視する我が国のリベラルは、そこに踏み込めない。それでいいのだろうか。

 本稿では近著を踏まえつつ、現在、リベラルが抱える問題について述べてみたい。

DesignPrax/shutterstock.com

自粛要請に過剰に反応した市民社会

 「リベラルはいない?」という思いを強くしたのが、緊急事態宣言とコロナ禍に対する日本の市民社会の対応、そして香港の民主化デモであった。いずれも「自由」「人権」「法の支配」を掲げるリベラルの核心が問われる出来事にもかかわらず、我が国のリベラルが沈黙したという点に筆者は衝撃を受けた。

 はじまりは、2月末の権限のない総理大臣による全国の学校の「一斉休校」だった。さらに3月には東京都が法的根拠のない「自粛」が要請された。自分たちの代表者で組織する立法府で決まった法律に基づくからこそ、自分の権利が制約されることを受け入れるという、「治者と被治者の自同性」「法治主義」「自己統治」はどこにいったのかと、あきれるばかりだった。

 だが、4月に我が国初の緊急事態宣言が発出された後も、強制力のないさまざまな「要請」に対し、市民は抵抗や反感を覚えるどころか、自ら積極的に自粛を行い、足並みを乱すものを“魔女狩り”のように見つけ出しては攻撃した。

 国家が責任をとることなく、「お願い」というかたちで市民の自粛に丸投げしたにもかかわらず、市民社会は相互監視と同調圧力によって“過剰自粛”に陥った。リベラルを自称する一部のマスメディアも、市民に「恐怖」や「不安」というガソリンをどんどん注入し、「自粛警察」がアクセルを吹かし続けることに加担した。

新型コロナウイルスの感染拡大を受けた緊急事態宣言の後、保育園に貼られた登園自粛を呼びかける貼り紙=2020年4月9日、読者提供

情緒に“理”で抗するのが生命線のはずなのに……

 外延がぼやけている法規制は、人々の自由を縮ませる。どこまで許されているかわからない状態では、人々は制裁を受けうるラインよりもずっと手前で自由の行使にブレーキをかける。自由への最大の敵だったはずの「自主規制」を、リベラルも受け入れた。

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