神津里季生・山口二郎の往復書簡(9)政局モードの思考パターンはもういらない
2020年09月16日
前回山口先生から書簡をいただいたのは7月の17日、それからほぼ2カ月が過ぎてしまいました。2週間に1回程度とご提案させていただいた当の本人が、まるで長い夏休みに入ってしまったかのようなここまでの停滞については、率直におわび申し上げるしかありません。さらに言えば、そうなってしまったことの背景には、私自身の、政治の世界に対する認識の甘さがあったと、不明を恥じる他ありません。
合流新党の立憲民主党の結党大会が9月15日、開かれました。この合流新党について先生は、「なんでも反対」と世に解釈されるような野党ではなく、しっかりと与党に拮抗する「対抗勢力」の成立としての期待感を持っておられました。その一方で、それがすんなりといくような生易しいものではないことも予見をされていました。
前回の先生の書簡「『日本沈没』寸前! 新たな『社会契約』で日本の再構築が必要だ」のなかにこういうくだりがあります。再掲させていただきます。
対抗勢力の結集の話し合いのなかで、自分の地位を守るために変革に背を向ける政治家が現れるなら、そのような人物は社会全体の生存よりも、自分の地位や利権を優先させる背徳者という非難を浴びなければなりません。
あえて自民党に対抗するという苦難の道を今まで歩んできた政治家なら、どのような行動をとるべきか、わかっていると期待したいところです。それは、政治家を応援する労働組合も同様です。
先生の直截な表現に対して私はあのとき、ちょっときついのではないでしょうかという意味のことをメールで申し上げました。今振り返ってみて、穴があったら入りたい思いです。
そのときの私の心配は、仮にこの部分が特定の人物を想定した表現ではないとしても、読み手にそのような誤解を生じさせてしまうのではないかというものでした。もちろん今も、この表現が直接Aさん、Bさんを指したものではないと私は解釈します。
ただ、どこにいっても、どの党においても、このような「背徳者」はいるのだというのが、この間の様々な状況を直接間接にみてきたうえでの私の実感です。政治家であれば皆一家言を持ち、思想信条にこだわりを持っているのは当然ですが、そのような純粋な側面だけではどうしても解釈しきれないことがあちこちに見受けられるのです。
「お盆の前には」と言われていた立憲民主、国民民主の両党の合流は、紆余曲折を伴いながらも、ようやく日の目を見ることとなりました。正直言って、心身をすり減らす日々でした。
労働組合と政治の関係についての一般的な理解は、世上あまり肯定的なものではないかもしれません。そういう視線からすれば、「心身をすり減らす」とはなんと大げさなとか、もっとやるべきことがあるだろうといった声が出るかもしれません。
そのような批判に対する反論は山ほどあるのですが、それはまた別の機会に譲るとして、ここでは、私が今回の局面で深く心に刻んでいたことを述べておきたいと思います。それは、3年前の政変劇のように、理念・政策が、政局に破壊されるようなことだけは、絶対に繰り返されてはならないということなのです。
先日、ある全国紙の記事で、3年前の希望の党騒動が神津のトラウマになっており、そのためしゃにむに合流新党に入れ込んでいるのだ、という趣旨の説明がありました。しかも、いまだに世の中に残る誤解を利用して、私自身が政変劇を仕掛けた一員であるかのごとき内容です。
拙著『神津式労働問題のレッスン』(毎日新聞出版)でも詳述したように、私の立場は小池百合子東京都知事・前原誠司民進党代表(当時)を中心とした安易で未熟な計画の被害者です。しかも当時の陰の立役者は、まさにその全国紙の政治部出身の某氏であり、彼が小池側近として差配をしていたのですから、あきれる他ありません。
この政変劇で幻となった当時の民進党のマニフェストは、オール・フォア・オール(注)を軸においた、確固とした理念を表現したものであったと言われています。私たち連合もそれと軌を一にした政策協定を民進党と結ぶはずでした。しかし、あの混乱の中で、どの政党も協定を結ぶ対象とはなりませんでした。
(注)オール・フォア・オール 財政学者の井手栄策慶応大学教授が提唱した「皆で支え合う社会」を目指す考え方。
トラウマと言われようがなんであろうが構いません。ただあの時のような有権者不在の政局の爆発で、理念が破壊されるようなことだけは許せないのです。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください