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「原発報道」は戦後ジャーナリズムの敗北の原点である

ジャーナリスト柴田鉄治さんの訃報に接して

石川智也 朝日新聞記者

原子力開発草創期に茨城で記者人生をスタート

 「日本のメディアはとっくの昔から敗北していた」というのも柴田の言だが、こうしたジャーナリズム観の根っこは、自らが関わった原発報道への悔恨や朝日の論陣への反省によって培われたものだ。

 柴田は日本の原子力開発草創期に、その発祥の地・茨城で記者人生をスタートした。戦争協力への反省が戦後の原点であるはずの新聞が原子力の安全神話に加担した果てに起きた福島第一原発事故は、新聞ジャーナリズムにとって「第二の敗戦」だったが、柴田にとっても「敗北」という言葉を強くかみしめる未曽有の体験だったようだ。

 当時の新聞を丹念にめくってみると、確かに、戦後ジャーナリズムの蹉跌は、独立回復後間もない1950年代の原発報道にすでに始まっていたことがわかる。

 東大物理学科を卒業した柴田が朝日新聞に入社し水戸支局に配属されたのは1959年、最初期の原子力ブームの余波が続いていた時代だ。茨城県東海村の日本原子力研究所(原研)で国内初の原子炉に火が灯ったのは1957年8月のことだった。

 その2年前、核技術の供与で西側の結束を図ろうとした米国の戦略に乗った日本政府は、原子力基本法の「民主・自主・公開」原則を早々に歪め、米国の援助で原子炉を設置する道を選ぶ。原研の候補地選びは1955年秋から水面下で進められたが、年明けからは全国で熾烈な誘致合戦が繰り広げられた。

 原子炉の安全性に関する解説記事が朝日新聞茨城版に初めて掲載されたのは1956年2月10日、東海村が「原研設置対策委員会」を発足させたわずか2日後だった。「爆発の心配はない 『死の灰』は遠く海底へ」という見出しの記事で、筆者は入社1年目の水戸支局記者、木村繁だった。前年に科学記者として唯一採用された男だ。

拡大「爆発の心配はない」という見出しの入った1956年2月10日付朝日新聞茨城版

 柴田鉄治のジャーナリズム観の形成には、この木村繁の存在が合わせ鏡のように絡んでくる。

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筆者

石川智也

石川智也(いしかわ・ともや) 朝日新聞記者

1998年、朝日新聞社入社。社会部でメディアや教育、原発など担当した後、特別報道部を経て2021年4月からオピニオン編集部記者、論座編集部員。慶応義塾大学SFC研究所上席所員を経て明治大学ソーシャル・コミュニケーション研究所客員研究員。著書に『さよなら朝日』(柏書房)、共著に『それでも日本人は原発を選んだ』(朝日新聞出版)、『住民投票の総て』(「国民投票/住民投票」情報室)等。ツイッターは@Ishikawa_Tomoya

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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