神津里季生・山口二郎の往復書簡(10)政権交代をめざしプレーボールがかかった
2020年09月17日
神津様、久しぶりの書簡を拝見し、この2カ月間、野党再編のために払われた努力に心から敬意を表したいと思います。
大きな敵を見据え、同志を結集するというのは戦いの常道ですが、そうした現実主義が通らないなか、野党の合流を図るのは大変な難事だったと思います。バラバラであれば政権を取る気がないと非難され、大きな塊を作れば理念なき野合と揶揄(やゆ)される。野党に対する冷笑は止むことはなく、支持率が急に上がることもありません。
だがそもそも、支持率のために政党をつくるわけではない。理念と覚悟をもって、決意した道を進むしかありません。政権交代を担える大きな野党を作るという評価基準に照らせば、今回の合流新党には100点満点で90点をつけたいと思います。
小選挙区を柱にする選挙制度改革に対応した新たな野党結成の試みが始まって25年になりますが、再編はもっぱら野党側で続きました。文字どおり長い試行錯誤の連続で、質の純化と量の拡大の二律背反に悩みつつ、賽の河原の石積み状態が続きました。
しかし、今回の新「立憲民主党」の結党は、今までの政党の合併とは明らかに違うと私は考えています。その理由は以下のようなものです。
野党の再編と労働運動における「連合」の形成は、多少の時間差はあるものの事実上、軌を一にして始まりました。
1990年前後、東西冷戦が終わり、ソ連型社会主義が崩壊し、日本の左翼政党と左派的労働運動にとりついていたマルクスレーニン主義の呪縛は消えました。市場経済と議会制民主主義を前提として、平等、公平な経済をつくるという西欧型社会民主主義の政党を日本でもつくる条件が整ったわけです。
1998年からは民主党をそのような政党に育てるべく、神津さんも私も奮闘しました。小沢一郎代表が掲げた「国民の生活が第一」という路線は、まさしく日本版社会民主主義だったと思います。
しかし、2009年に自民党から政権を奪取しても、社会民主主義路線は根付きませんでした。当時の民主党には、新自由主義者も混在していました。また、二大政党のモデルに関しても、保守二大政党制を目指す人々が混じっていました。私などは、自民党の二軍をつくるくらいなら、二大政党制などいらないといら立っていましたが……。
2017年の希望の党の企ては、保守二大政党制を目指す小池百合子東京都知事と前原誠司氏の策動でした。枝野幸男氏がこれに反発して立憲民主党を結成し、僅差で野党第一党となったことから、新しい野党結集の動きが始まりました。
枝野代表にとって野党結集の原点は、1998年の民主党ではなく、2017年の立憲民主党です。この点こそが、今回の合流劇を読み解く際に不可欠の視点です。
立憲民主党と国民民主党の無益な喧嘩で失ったものもありますが、民主党の元のさやに納まったのでは、立憲民主党を立ち上げた意味がないというのが、枝野代表の思いだったのでしょう。この頑(かたく)なさのおかげで、
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