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危機において自由と安全は調和するか? コロナ禍のフランスの試み

民主主義と自由・人権の問題を私たちに突きつけた新型コロナの感染拡大

金塚彩乃 弁護士・フランス共和国弁護士

Novikov Aleksey/shutterstock.com

 9月8日の日経新聞に「自由を守るための不自由 再生迫られる民主主義」というタイトルの記事が掲載された。

 新型コロナウイルスの感染者との接触の有無の追跡を可能にするアプリのダウンロードにかかわるプライバシー保護の問題からはじまり、フェイクニュースがもたらす表現の自由への脅威や民主主義と自由を守る困難さが紹介され、「パンデミックは目覚まし時計だ」というマサチューセッツ工科大学の教授の言葉を引用し、「自由と民主主義という価値をどう守るか。目の前にある問いだ」と結論づけ、さらに人々はコロナ禍により「個人の自由か公共の安全かという選択を日々迫られるようになった」と警鐘を鳴らす。そんな内容だ。

 新型コロナウイルスの感染拡大が、私たちに民主主義と自由、そして人権の問題を突きつけたことは間違いない。はたして自由と安全とは、どちらかを選ばなければならない対立概念なのか。このアポリア(難問)について、筆者が専門とするフランスを通じて考えてみたい。

自由の抑圧を断行した欧米諸国

フランス近代国家はじまりの象徴であるパリ・バスティーユ広場に集まる人々(サッカーワールドカップ優勝の後で)=2018年7月15日(筆者撮影)
 今回のコロナ禍において、自由か安全かという問題は、とりわけ欧米において深刻であったかのように見える。

 コロナは当初、感染拡大が心配されたアジアではなく欧米で猛威を振るい、メディアを通して私たちは、日本からは想像もできない数の感染者や死者数に日々驚かされた。欧米は厳格なロックダウンを敷き、外出が制限され、違法な外出については罰金が科されるといった事態となった。

 私たちがこうした危機的状況の中で見たのは、自由と人権擁護の先進国であるはずの欧米が、あるいは少なくともそう標榜する欧米諸国が、日本にはできなかった自由の抑圧を、いち早く、ためらいもなく断行するという事態であった。欧米は公共の秩序や安全のためであれば、いともたやすく自由を差し出すかのように思われ、この状況は欧米の民主主義の脆弱(ぜいじゃく)さ、あるいは欺瞞(ぎまん)すら浮き彫りにするかのようだった。

民主主義の放棄につながるリスクも

 たとえば、朝日新聞は緊急事態下の2020年5月5日、「私権を制限する欧米、『自粛』の日本 憲法改正は備えか」と題する記事を掲載した。欧米各国がいかに強力な措置をとっているかが紹介されるとともに、ドイツやイタリアの厳しい対応を多くの国民が支持している状況を「命守るためには自由制限」という見出しで報じ、フランスでも「15年のテロを経験し、国民の生命を守るためには、自由を制限してでも国家権力を強める必要があると考える人が増えている可能性がある」というパリ政治学院の教授のコメントが引かれていた。

 さらにこの記事には、国民の行動の制限の根拠が憲法か否か、罰則があるのかどうかについて、米・独・日を比較する表も掲載された。厳しい措置は自由の制約という観点からのみ紹介され、そこから見えてきたのは、安全のためであればどのような強行措置も支持する、日本人よりも簡単に自由を手放す欧米人の姿だった。

 人々の自由が守られるのが(あるいは守られるはずなのが)民主主義体制であると一般に解されるとすれば(もちろん定義はいろいろあるが)、このような自由の放棄は民主主義それ自体の危機とも考えられる。公共の安全のため自由を差し出す行為は、民主主義の否定につながることになるだろう。

 冒頭で引いた日経新聞の記事は、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を引用し、人々が自由でいる責任に耐えかねた結果、ファシズムや共産主義の台頭を許したとし、現状の自由の放棄が民主主義の放棄につながり得るリスクを指摘してもいる。

Maria Vonotna/shutterstock.com

自由と安全の調和を模索したフランス

 しかし、状況をもう少しそばから見てみると、自由と民主主義を守るための戦いは、個人の自由か公共の安全かという対立項の選択の問題だけではないことが見えてくる。むしろここで検討対象とするフランスで模索されたのは、危機的状況における自由と安全の調和だった。

 そもそもフランスでは、公共の安全は自由の行使の前提条件だと考える。つまり、危機的状況においても、個人が自由を可能な限り行使できる状態を保つために、公共の安全がどのようなものでなければならないかが考えられる。自由の行使の領域を確保するための線引きを、いかに明確にするかの努力が行われるのである。

 それゆえフランスでは、どのようにして自由と安全の「調和」を図るかという議論はされても、自由と安全のどちらかを選ぶという問題の立て方はなされない。

 調和に関する議論は、安全の確保が憲法上の要請であるとしても、安全を守るために同じく憲法上守られる権利を必要以上に侵害してはいないか、という検討を通じて行われる。この手法は、「比例性原則」と言われるもので、①安全のために自由を制約する法律が行き過ぎになっていないかということを法律を作る際に吟味し、②法律の適用の方法もまた必要以上に自由を侵害していないかという裁判所による具体的な吟味――によって行われる。

1789年人権宣言に基づいて

corgarashu/shutterstock.com

 そしてこの調和は、法律が決めるルールによるべきとされる。このルールは、今も憲法上の効力を有する1789年人権宣言の4条に基づく。具体的には以下の通りである。

――自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によらなければ定められない。

 これは、私たちの自由は他人の自由によってしか制約を受けないが、自由と制約の調和を行うのは法律のみという考えである。そして、法律による自由の制約については、それが必要以上のものになっていないか、という点が常に吟味される。

 制約が必要最低限度のものになっているかどうかは、制約を課す法律の言葉が明確でないと評価できない。そのため、リミットを設ける法律は詳しく、明確なものとなる。フランスの模索は、問題となる自由や権利自体が何であるかを明確にしたうえで、いかに明確な言葉で自由と制約の調和を図るかということになる。

国は自由と安全の両方を守る義務を負う

 フランスが緊急事態宣言下でもたびたび立ち戻った人権宣言は、上述の自由の行使の前提として、「人は自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存」(第1条)し、他方では、「あらゆる政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である」(第2条)ことを確認している。

 つまり、国の目的は自由で平等な市民を守ることである。とすれば、国はどこまで危機的状況の中で国民を守るべきかという視点が生まれてくる。ここでもまた、問題は自由と安全をどちらを選ぶかということではなく、国としては、自由と安全の両方を守る義務を負うこととなる。

 コロナ禍のもと、こうした調和や国の義務は、たとえば以下のような場面で考えられてきた。

 許可された外出の際に、自転車には乗れるのか? 体温はプライバシーではないのか?宗教儀礼で集まることはできるのか? 新型コロナウイルスに感染後の隔離の場合に家族とのつながりはどうなるのか? 隔離の際に制約されてしまう自由の範囲はどこまでか?シーズン途中で終わってしまったサッカーのチームのランクはどうなるのか? マスクの着用はどういうルールで義務になるのか? デモはできるのか? 人の移動を制限しているなかで移民の受け入れはどうなるのか? 緊急事態下において女性はより不利な状況に置かれていないか?

 こうした様々な疑問に対し、法案作成過程、国会での審理過程、法案可決後の憲法院による憲法適合性審査の過程、そして法律が実施された後の行政裁判の過程で、回答を出そうとしてきた。

 フランスでは政府提出法案については、国会に提案される前に、政府の諮問機関であり、行政最高裁としての権能を持つ「コンセイユデタ」(国務院とも訳される。1799年にナポレオンにより設置された)が内容の審査を行い、法案が可決された後は、大統領・首相・両院議長、60人以上の各院の議員の申立てがある場合には、法律の施行前にその法律が憲法に適合されているかの審査が、憲法院により行われるというように、何重ものチェック過程を経る。

 コロナ禍でも試みられたのは、法律制定の過程で、安全の名の下に自由をあきらめるのではなく、新型コロナウイルス感染拡大防止という市民の安全を確保しつつも、可能な限り自由も保護して、安全と自由を調和させていくことだった。

コロナ禍において重要な役割を果たしたコンセイユデタ(筆者撮影)

危機的状況でどう自由を確保するか

 たとえば、フランスでは緊急事態宣言の発令(3月23日)もその延長(5月11日)も、法律によって行われた。宣言発令にあたっては、詳細にわたる発令に伴う措置が緊急事態に対応するためやむを得ないことを確認し、状況の把握が進んで緊急事態宣言を延長するにあたっては、コンセイユデタが措置の必要性に関してより厳しく以下のように指摘している。

 「公衆衛生法上の緊急事態宣言を延長するにあたり、健康の保護という憲法的価値を有する目的を擁護するという観点から、法案が公衆衛生上の重大な問題により生じる法律上のリスクと、とりわけ1789年人権宣言第2条及び第4条、そして憲法66条によりその補償が司法権へと託された個人の自由である往来の自由及び私生活上の自由との間でバランスを欠くことがないよう、法案が調和を図るものとなるよう監督する」(2020年5月4日コンセイユデタ意見)

 可決された法律が施行される前に、法案の憲法適合性に関する審査が付託された憲法院も、たとえば緊急事態宣言延長法が予定する感染者の隔離措置について、以下のように述べる。

 「感染の可能性がある人の14日間の自宅等での待機と、14日間の隔離措置については、憲法院は、何人も恣意的に拘禁されてはならないと定める憲法66条に鑑み、必要性のない厳格な措置により自由が阻害されてはならず、追及されている目的に比べて、その自由の侵害は、適合的であり、必要であり、かつ比例的でなければならない」(2020年5月11日憲法院判決)

 緊急事態下で検討されているのは、自由と安全の選択ではなく、その調和のための模索である。そしてこの調和は、なによりも緊急事態下での自由を確保する試みであり、危機的状況下での自由の境界を明確にする試みでもある。

個人の自由か公共の安全かの選択を迫られた日本

 このような自由と安全の調和、あるいは自由の境界の明確化という観点から、私たちは何かを引き出すことができるだろうか。

 日本では欧米と異なり、緊急事態下においても法律による強制が行われず、表面上は個々人の判断に基づき行動が制限された。こうなった背景には、いまだ理由は明確ではないものの、日本では欧米各国に比べてコロナ禍の被害が少なかったという事情もあるかもしれない。

 とはいえ、4月8日の緊急事態宣言の発令を受け、私たちの生活が一変したのも事実である。しかし、その生活の変化が法律ではなく、「自粛」で行われたため、自由の制約という意識は希薄にならざるを得なかった。私たちが強いられた「自粛」について、自由や権利かという観点からの議論は進まなかった。また、「自粛」である以上、完全な自由意思で自由を制約しているのでないにしても、その制約の程度が適切か否かを客観的に判断する、たとえば裁判所のような公的な場も、存在し得なかった。

 私たちは、どこまで我慢をしたらいいのか手探りし、時に我慢競争の中で疲弊していった。そこからは安全と自由の調和を見出す思考は生まれず、安全と自由は両立するものではなく対立するものとなり、どちらかを選ぶ選択肢となった結果、安全が選ばれた。自由とその限界は議論すらなされなかった。

 安全と自由の明確な線引きのための努力がなされなかった状況においては、安全のためには自由をあきらめなければならないという二者択一の関係が生じる。私たちはこうした状況のもと、まさしく「個人の自由か公共の安全かという選択を日々迫られるようになった」のである。

「自粛」という言葉が使われたことで

 「自粛」という自己責任のような言葉が使われた結果、国がどこまで私たちの自由を安全とともに守るべきかという議論が立てられなかったのも問題だ。

 コロナ禍において、私たちは個々人で自粛の範囲に頭を悩ませてきた。しかし本来は、安全だけでなく自由の確保もまた国の役割である。それを想起すれば、問題は私たちの自己責任のレベルから、社会の、そして国家の私たちに対する義務はどのようなものか、国家はその義務を適切に果たしているのかというレベルに移ってくる。

 はたして日本は、国として安全とともに、私たちの自由を守るために必要な対応を取ったのだろうか。そもそも私たちの自由を尊重しようという意識があっただろうか。

自由、平等、博愛を象徴するフランスの三色旗(2018年サッカーワールドカップ優勝の後の風景)=筆者撮影
 コロナ禍は来たるべき秋冬は予断を許さないとも言われ、まだ今後を占えない。かつてのような自由な生活がすぐに戻らないとすれば、これまでどおり「自粛」の中で自由と安全を二者択一として捉えるのではなく、私たち自身が、安全を確保しつつも自由を確保する――自由の境界線を明確にする試み――方法を考えていくことも必要だろう。

 自由とその領域を意識して考えることは、元の日常が戻ったときに、自分の、そして周りの人々の自由を尊重することにつながるはずだ。そのとき、長い歴史のなかで自由について考え続け、コロナ禍のもとでの緊急事態下における自由の問題について、すでに3月から試行錯誤を行ってきたフランスの安全と自由、自由と自由の調和のための模索から得られるものもあるに違いない。

 私たちがあまり考えてこなかった自由の問題について、そもそもどのような自由が問題になっているのか、安全との調和はどのように考えられたのか。次回以降、具体例を踏まえて見ていきたい。