日本の展望と指針を示すための作業に着手を。「経済計画」策定も一策
2020年09月23日
19世紀後半、ドイツ帝国で辣腕をふるい、「鉄血宰相」と称されたビスマルクは数々の名言を残している。そのなかのひとつに「ビスマルクのマント」がある。私にとって、学生時代から忘れられない言葉である。
話の大略を示そう。
政治家として打つ手打つ手が見事にあたるビスマルク。ドイツ統一を果たし、ヨーロッパ社会でも主導的な役割を果たしていた。あるとき、部下が「どうして閣下は、最適な判断や行動ができるのですか」とたずねると、こんな趣旨の返答をしたという。
――誰の傍らも、多くの「運命のマント」が通り過ぎていく。そのなかで最も必要なマントの裾をちょっとつかむだけで、状況は大きく変転して望む方向に進むものだ。
凡人は、あるいは運のない人は、つかむ必要のない、あるいはつかんではいけないマントの裾をつかんでしまう。だから、うまくいかないし、大失敗もする。ビスマルクはそうではなかった。つかむべき運命のマントをその手で的確につかんだ。
おそらく、運命のマントが見えるのは、確かな目標や志を持った人だけなのだろう。
この話のことがずっと頭にあった私は、20年ほど前のテレビ番組で、学生たちに送る言葉として「チャンスは黙って通り過ぎる」とパネルに書いた。意味するところは、「ビスマルクのマント」と同じである。それから10年ほど経ち、私のこの言葉によって人生が大きく変わったという人から、感謝の気持ちを伝えられ驚いたのを覚えている。
そんなことを、菅義偉首相の誕生によってふと思い出した。
菅氏のこれまでの半生を知ると、この人は人生の随所で運命のマントを機敏につかんできたのだろうなと感じる。志が強固だったからそうだったのか、それとも単に幸運だったかはまだはっきりとしないが……。
ひとつは自民党結党の直後、1956年1月に次期総裁の大本命であった緒方竹虎氏が急逝したことだ。そして、その1年後、総裁選で敗れた相手である石橋湛山首相が病気で退陣を余儀なくされたこと。このふたつの予想外の出来事がなければ、自分は首相になれなかったと言う。
さらに、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容された後、米ソの冷戦が勃発したことも幸運だったという。それによって、米国も日本も反共の指導者・岸信介を必要とすることになったからだ。岸氏は獄中で、冷戦が激化することをひたすら願ったという。
そのとき、岸氏には間違いなく運命のマントが次々と見えていたに違いない。そして彼は、その裾を果断につかみ、釈放後ほぼ8年にして首相の座に就いた。
菅首相もまた、常に運命のマントが飛び交う修羅場に身を置こうとしてきたのだろう。修羅場が出現しなければ、自ら修羅場をつくり出して、マントの裾をつかんできたのかもしれない。
菅氏の政治経歴を眺めると、特記すべき幸運が二つある。ひとつは、衆議院に小選挙区制が導入されたこと。もうひとつは、
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