“普通”という名の圧が蔓延する中で、ノイズとして存在したい
台湾から日本へ。自分が堂々と私でいられる場所を日本語の中につくった温又柔さん
安田菜津紀 フォトジャーナリスト
いろんな声が“音”として飛び交う
台湾が辿(たど)ってきた歴史は、近代だけをとらえても、単純化して語ることができない。日本の敗戦後、台湾を統治したのは蒋介石率いる国民党だった。毛沢東との国共内戦に敗れ、台湾に渡った蒋介石は、自らが率いる中華民国こそが正統な「中国」だと主張した。そのため公の場では、人々が日常の生活で使っていた台湾語ではなく、中国語が「公用語」として使われることになる。
1945年までは日本の支配を受けていたために日本語が使われ、その後は中国語の教育が学校などで徹底された。それゆえ温さんの家族の言葉は重層的で、日本語を話す年配の親族もいた。
温さんの、物心つく前の記憶は、“音”と共にあるという。
「祖父母や大叔父大叔母、叔父や叔母がいっぱいいて、いろんな声が“音”として飛び交っている中で、自分が片隅にいたような記憶は何となくあるんです。きっとそれは台湾でのことなのかもしれませんね。自分が文字を覚える以前の記憶が、とてもくっきりあるんです」
今も鮮明な最初の文字との出会い
都内のカフェで、まだあちこちから響いてくる蝉の声を背に、温さんは自身のルーツを語ってくれた。
「日本に引っ越してきて、日本語を覚えることで、文字のある世界に入り込んだので、6、7歳の時にそれ以前の記憶を“保存”しちゃったような感覚がありますね。自分が文字を知らなかった頃は、今とは全然違う風景、そして“音”の中にいた、という感覚があります」
温さんは、最初の文字と出会いを鮮明に覚えているという。小学校の教室でひらがなを学び始めたときのことだ。声に出した途端に“音”として流れ去ってしまう言葉が、文字として紙の上に残る感動が、温さんの心に溢れた。そして、その最初の文字を教えてくれた当時の担任、K先生との出会いもかけがえのないものだったという。

シリーズ、よりみちパン!セ、新曜社の『「国語」から旅立って』