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世界に広がる「ジジェクのパラドクス」:信頼から遠く離れた菅政権

「民主的蜂起の勢力」は「自由民主資本主義の理想」に決して追いつけない

塩原俊彦 高知大学准教授

 世界の経済問題について考えるとき、ヒントをくれるポール・クルーグマンと同じように、21世紀の哲学や思想を議論するとき、素晴らしい発想を教えてくれる哲学者スラヴォイ・ジジェクは2020年8月、つぎのサイトで、「アキレスと亀」のパラドクスの話を紹介している。まず、ジジェクの説明を紹介したい。

拡大ルカシェンコ大統領再選が発表された選挙結果に抗議するベラルーシの市民たち=2020年9月6日、ミンスク Shavel / Shutterstock.com

ベラルーシでもアキレスは亀に追いつけない

 「ここ数年世界を震憾させてきた抗議行動は明らかに二つのタイプに分かれている。一方では、西側のリベラルメディアの支持を受ける、香港、ミンスクなどでのキャッチアップ抗議行動がある。もう一方では、自由民主主義プロジェクトそのものの限界への反発である、より厄介な抗議行動がある。フランスでの黄色いベスト運動、Black Lives Matter(黒人の命を軽んじるな)、絶滅の反乱(地球温暖化や生物多様性の喪失などによる人類絶滅という危機感から、こうした動きに抵抗しようとする非暴力の市民運動)などである。この二つの関係はよく知られている「アキレスと亀のパラドクス」に似ている。その結果、二人の間の競争では、足の速いアキレスは決して亀を追い越すことはできないということになる。アキレスがどんなに素早く差を縮めても、遅々としているが手堅く進む亀は常に新たに差を開き、より小さな差のままギリシャの英雄の前に立ちつづける。」(カッコ内は引用者注)

 こうのべたうえで、彼は、「アキレスを「民主的蜂起の勢力」に、亀を「自由民主資本主義」の理想に置き換えてみよう」としている。そして、つぎのようにつづけている。


 「大多数の国はこの理想に近づきすぎることはできないし、理想に届かないのはグローバルな資本主義のシステム自体の弱点を表現しているとすぐにわかる。これらの国ができるのは、このシステムを超えて到達するというリスクのある行動であり、それはそれ自体が危険をもたらす。」

 ジジェクはここで何を言おうとしているのか。それを考えるには、ジジェクが論じているベラルーシの事例をあげればわかりやすい。彼はベラルーシをめぐって、同じ論考のなかでつぎのように書いている。

 「ベラルーシで進行中の抗議行動は、ベラルーシを西側の自由資本主義的価値観に合わせることを目的としたキャッチアップ抗議行動だ。しかし問題は、デモ隊が民主主義の勝利を主張し、熱狂の第一波が終わった後にやってくるだろう。最終的な結果は、ハンガリーのヴィクトル・オルバン首相あるいはポーランドのヤロスラフ・カチンスキのような、ベラルーシ版の新たなネーション重視の保守的な人物の登場になるかもしれない。つまり、心に留めておくべきなのは、最近までルカシェンコが相対的に人気を博していた理由だ。彼は大目に見られ、一部のサークルでは受け入れられていたが、それは彼が野生の自由資本主義の荒廃(腐敗、経済・社会的不確実性)に対する安全な避難所を提供していたからなのである。」 

 ベラルーシの例で言えば、独裁的なアレクサンドル・ルカシェンコ大統領に抗議する勢力がアキレスのように走っても、自由民主主義の理想にまでは決して届かないというのだ。なぜか。自由資本主義が伴っている腐敗や経済・社会的不確実性の存在のために理想は理想にとどまり、国民と翻訳されることの多いネーションを重視し、既得権を守ろうとする勢力によって再び蹂躙されかねないのである(ここで、アドルフ・ヒトラーの政党、ナチスが国民社会主義ドイツ労働者党とも訳されてきたことを思い出してほしい)。

 加えてジジェクはつぎのように指摘している。

 「さらに我々は、親民主主義の抗議者が自由主義資本主義の西側に追いつこうと努力している間に、経済や政治において、先進西側自体がポスト資本主義、ポスト自由主義の時代、すなわちその本質においてディストピアである時代に突入しつつあるという明瞭な兆候があることに気づかざるをえない。」

 ジジェクがとくにパラドクスとして強調したのは、このポスト資本主義やポスト自由主義への進化が実は、精神的にポストソヴィエトの独裁政権に近い社会的実体へと変化したことを意味しているということだった。亀たる「自由民主資本主義」の理想も進んでいるようにみえて、本当はぬかるみにはまり込んで立ち往生しているだけなのだ。

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筆者

塩原俊彦

塩原俊彦(しおばら・としひこ) 高知大学准教授

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士(北海道大学)。元朝日新聞モスクワ特派員。著書に、『ロシアの軍需産業』(岩波書店)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(同)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局)、『ウクライナ・ゲート』(社会評論社)、『ウクライナ2.0』(同)、『官僚の世界史』(同)、『探求・インターネット社会』(丸善)、『ビジネス・エシックス』(講談社)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた』(ポプラ社)、『なぜ官僚は腐敗するのか』(潮出版社)、The Anti-Corruption Polices(Maruzen Planet)など多数。

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