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政治による人事介入の危うさ

トランプ政権と菅政権に見る人事権という甘い誘惑

花田吉隆 元防衛大学校教授

大きな役割を果たしてきた米国の司法

 米国における司法の影響力は日本の比でない。就中(なかんずく)その頂点に位置する連邦最高裁はこれまで米国社会の在り方を数多く左右してきた。

 米国は、政治問題に限らず、企業活動から日常の些末な争いに至るまで、訴訟で決着をつける習慣が根付いている。日本のように、できれば裁判沙汰は避けられるものなら避けたいという国民とは違い、米国では、裁判で決着をつけることに何の躊躇もない。皆が、移民として異なった社会からやって来て、それを縛る伝統や習慣がない中、裁判こそが争いを収める最後の手段として機能する。司法はそういう国民の期待に応え、数々の政治的意味合いを持つ問題を判決の形で決着させてきた。2000年、大統領選挙の勝敗がつかず、司法判断に委ねられ、連邦最高裁がブッシュ氏勝利につながる判決を下したのは記憶に新しい。

 そればかりか、米国社会を二分する問題も、結局、司法の判断に委ねることになる。人種差別(1954年)、人工妊娠中絶(1973年)、銃規制(2008年)、医療保険(2015年)、同性婚(2015年)と、連邦最高裁の判決を辿れば、この国で司法が果たしてきた役割の大きさがわかる。

 米国と言えば、日本の議院内閣制と違い、三権が互いに睨み合いそれぞれが拮抗するという三すくみ状態を、あえて作り出すことで権力を抑制しようとするところにその特徴がある。したがって、三権は独立であるべきであり、独立を保証するもっとも重要な要素である人事に対し、他の権力が介入するようなことがあってはならない。ところが、連邦最高裁判事、控訴裁判事、地方裁判事は、憲法第3条で大統領が指名し上院が承認することになっている。つまり、政治が司法に介入することが制度として想定されている。

 そうであるならば、政治の側はその人事権行使に当たり抑制的であるべきであり、間違っても、国民に司法の独立が疑われるようなかたちで人事権を行使することは厳に控えるべきと思うが、実際は、そんな綺麗ごとは意に介されることもない。人事権は政争の具と化している。

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筆者

花田吉隆

花田吉隆(はなだ・よしたか) 元防衛大学校教授

在東ティモール特命全権大使、防衛大学校教授等を経て、早稲田大学非常勤講師。著書に「東ティモールの成功と国造りの課題」等。

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