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コロナ危機で「新しい生活様式」を上から押しつけられないためのヒント

オーケストラのあり方から見えたポストコロナの「個」「市民社会」「国家」の関係

倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)

 新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、社会全体が不安にさいなまれていた頃、安倍晋三前総理によって提唱された「新しい生活様式」。皆さんはもう、それを遂行し、慣れてきているだろうか。

 「Go To キャンペーン」のもと、用心しながら旅をしたり、食事をしたり。仕事も、会社に行かず、自宅でパソコンに向き合うリモートワークに。私たちの生活は、確かに変わりつつある。「ソーシャルディスタンス」が社会の至るところに持ち込まれ、運動会には2メートルのバトンをつなぐリレーも登場したとか。のけぞるばかりである。

運動会の練習風景。運動場に置かれた水筒からも児童らが「ソーシャルディスタンス」を意識していることがうかがえる=2020年9月28日、名古屋市瑞穂区

市民社会がじわじわ変わることへの漠然とした危惧

 命を守るため、コロナ後の世界で生きるために必要だといわれ、なんとなく「新しい生活様式」を実践する私たち。だが私は、市民社会が曖昧(あいまい)かつ混沌(こんとん)としたなかでじわじわ変わっていくことに、漠然とした危惧を覚えざるを得ない。

 コロナ禍における「新しい生活様式」とは何なのか。空気に流されず、自分で考えるために役立ついくつかの“スパイス”を、本稿では紹介したい。

 具体的には、ヨーロッパでのオーケストラ芸術の取り組み、否、もっと近視眼的に“ある演奏”だったりする。

 拙著『リベラルの敵はリベラルにあり』でも、オーケストラ芸術や演奏家という「非政治」による政治的な実践を取り上げたが、オーケストラ芸術にとって、コロナ禍での「3密禁止」や「ソーシャルディスタンス」は存亡に関わる足かせだった。そのような“手足を縛られた”なかでのある演奏から、私はポストコロナにおける「個」と「市民社会」と「国家」のあり方を嗅ぎ取り、それらの関係性が目の前でバーチャル映像のごとく組み立てられていくような感覚を覚えた。

 そんな感覚を、読者の皆さんも以下の文章で是非、追体験してほしい。まずは、オーケストラという存在の「政治性」から始めよう。

オーケストラは民主主義そのもの

 オーケストラとは民主主義そのものだと私は思う。

 現在、一次的に交響曲を意味するsymphonyという言葉は、ギリシア語が語源の“sym”=「一緒に」と“phon”=「音」が合体し、複線的に進行する音楽が「共に響く」という音楽的な事象から転じ、二次的には「さまざまな異なる要素が混ざり合って、一つの効果を生み出しているさま」という意味を持つ。

 ”Symphony”の語義に象徴されるように、交響曲を筆頭としたオーケストラ芸術は、まったく違う音符、長さ、大きさ、フレージング、さらにいえば、音色、表情、音を媒介とした主張など、役割及び個性がそれぞれにつき異なる音楽が、100人規模で同時進行する。

 そこでは、それぞれが異質な「個」が衝突したり相反したりしながら、楽曲自体が目指すものや指揮者が目指すものに向かって収れんし、表現として完成していく。もしかすると、楽団員の中に指揮者の表現や他の多数の楽団員の目指す音楽・価値観とは相いれない奏者もいるかもしれない。その不満や価値観への抵抗をひきずりながらも、そのオーケストラが目指す一つの音楽が築かれるのである。

 オーケストラと民主主義に共通する醍醐味は、多様な価値観のぶつかりあうこと。それを経て、「多様な価値観」とは真逆な「一つの」結論を出さねばならない、いや、結論が否応なく“出てしまう”という点にある。

KPG Ivary/shutterstock.com

結論に至るプロセスがなによりも重要

 この“出てしまう”という点がポイントだ。結論が出てしまうからこそ、そこまでのプロセスがなによりも重要になる。

 オーケストラも民主主義も、本来、折り合いのつかない「個」が、一つの音楽や市民社会を構成しているからこそ尊いのである。

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