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「元・学者」が日本学術会議騒動に抱いた大いなる違和感

平成の諸学界の総括こそ必要だ

與那覇潤 歴史学者

 日本学術会議という、平素は話題に上ることすら乏しい組織が珍しく注目されている。同会議が新たな会員(規定にのっとり全体の半数を改選)として推薦したメンバーのうち、6名が任命されなかったからだ。

 法律上、任命権者は内閣総理大臣と定められているので、菅義偉首相が「任命することを拒んだ」形である。6名のうちに加藤陽子氏(歴史学)・宇野重規氏(政治思想)という、幅広い媒体でオピニオン欄・書評欄の常連を務める「著名研究者」が入っていたことも、問題を激化させているようだ。

 官邸は任命拒否の理由を明らかにしていないが、6名全員が安全保障法制ないし共謀罪に反対し、「学者の会」を組織して活動していたため、それが理由だと目されている(違うというのであれば、官邸側が反論すべきだ)。これが火をつけたのか、平素は眼前の政治には我関せずという姿勢の研究者や大学教員たちまで声を上げ、ネット上ではかなりの規模の騒動となった。

 私自身、今回の任命拒否が好ましいことだとは思っていない。しかし、政権による任命拒否を声高に非難する「学者」たちの議論の進め方に関しては、より一層深い疑問を感じる。

拡大学術会議総会=2020年10月2日、東京都港区

「学問の自由」とは無関係

 たとえば非常に目立ったのは、とくに加藤・宇野の両氏の業績(著作など)をにわかに持ち上げて、「これほど識見ある学者を任命しないのはおかしい」という論法だった。しかし、これは奇妙である。

 こうした批判をする以上は、自身の主張と表裏一体のものとして、「識見のない学者なら、任命拒否もやむを得ない」とする前提を受けいれなければならない。その場合は当然、学術会議会員候補の見識の有無を、任命権者である総理大臣が判断してよいということになる。かつてのソ連ではスターリン首相が、誰が「正しい学説を打ち立てた優れた学者」であるのかを全部決めたが、彼らは日本をそうした国にしたいのだろうか。

 「総理大臣による任命は純粋に形式的なものであり、実質的な(=業績等に照らした任命の当否の)判断に政治家が踏み込むのはよくない」という立場をとるなら、最後までそれで一貫しなければおかしい。業績の多寡やその内容にかかわらず、極論すれば「なんの見識もなく、学界での人脈に強い」だけの候補者であっても、学術会議の推薦にしたがって任命されるのが当然との原則に立つべきだ。取ってつけたように加藤・宇野両氏が「いかに優れた学者か」を持ち出すのは、議論の進め方として不公正であり、本人にも失礼だろう。

 同様の理由で、「学問の自由」がこの間、振りまわされたことにも違和感を持った。そもそも日本学術会議とは、会員210名の少人数の団体であり、そこに所属しなければ「研究ができない」「不利益を被る」といった性格の組織ではまったくない。

 むろん会議として声明や指針を取りまとめ、政府や社会に提言することはあるが、法的な拘束力や遵守する義務はない。私自身、7年ほど公立大学の准教授として勤務したことがあるが、研究の遂行にあたってこの会議の存在を意識したことは一度もなかったし、多くの学者が同様だと思う。

 むろん、誰でも入会可能な民間の学界ではなく、首相から任命されて会員となる「政府の組織」である点に、一定の権威を感じる人はいるのだろう。しかし、根本的な「目指すべき国のかたち」――たとえば安保法制に基づき集団的自衛権を行使する日本――のレベルで、目下の政権と見解を異にする学者が、その政府の組織に加入することを名誉に感じるとしたら、それは自家撞着である。

 今回任命を拒否された6名はおそらく、そうした矛盾した人びとではないように思う。周囲が勝手なおせっかいを焼いて、彼らにも学術会議の会員という「権威」や「名誉」を与えよと要求するのは、奇異であり非礼なことだ。

 むしろ真に「学問の自由」と関わるのは、こうしたマイナーな政府機関の人事ではなく、各学界での「研究の潮流」である。たとえば平成の半ばからずっと、政治学・日本政治史の分野ではオーラルヒストリーが流行しており、引退後の政治家(多くは保守系)や大物官僚への聞き取りの成果を叙述に組み込むと、著作の評価が上がるといった現象がみられる。各種の「学術賞」も獲りやすくなり、それは当然、得られる大学のポストにも反映する。

 しかしたとえば安倍晋三や菅義偉のような前・現首相に、将来「聞き取り」したければ、研究者は論壇等での「政権批判」を控えておかざるを得ない。結果として、政権を動かす人びとに忖度(ないし協力)する学者のほうが、業績を上げるうえで有利になるなら、それはボディブローのように「学問の自由」をすり減らしてゆくだろう。

 学問の自由を毀損するのは、政治家のような「外部」からの一方的な圧力とは限らない。むしろ研究者自身の怯懦や認識不足によって、「内部」から自由が失われてゆく危険は常にある。後者に対してなんの声も上げてこなかった――時としてむしろ同調してきた者が、前者に対してだけ声高に叫ぶのは、学者のあり方として不誠実だと思えてならない。


筆者

與那覇潤

與那覇潤(よなは・じゅん) 歴史学者

1979年、神奈川県生まれ。歴史学者。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史がおわるまえに』、『荒れ野の六十年』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環と共著)で小林秀雄賞。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです