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日本学術会議騒動にみるもう一つの違和感

「気高い嘘」への疑問

塩原俊彦 高知大学准教授

 10月9日にアップロードされた與那覇潤「「元・学者」が日本学術会議騒動に抱いた大いなる違和感:平成の諸学界の総括こそ必要だ」に心を動かされた。「一学術団体の人事に目をとられるあまり、国のかたち全体やそこにいたる歴史の文脈を忘却し、自身が行ったばかりの「自由の放棄」を糊塗する人びとには、大きな疑問を持つ」という部分と、「学者たちの共同体の全体がみずからを偽って省みないとき、知性は滅ぶのである」という最後の文章は重い。

 ただし、「ひねくれ者」の筆者に言わせれば、すでに知性は滅んでいるのではないかと思う。日頃、インターネットを通じて世界の潮流をのぞき見しているような仕事をしている者からみると、日本の議論は「現実離れ」しているように思える。あるいは、「みずからを偽って省みない」ために、「現実」を無視しているように感じる。こんな筆者からみると、世界の現実はもっとずっと深刻であると指摘しなければならない。そこで、ここでは筆者の感じる別の違和感を語りたい。

拡大「学術会議任命拒否問題」の野党合同ヒアリングで発言する日本学術会議の広渡清吾元会長(中央)。左は大西隆元会長=2020年10月9日、国会内

商品としての「知識経済」

 英国の学者ウィリアム・デイヴィス著Nervous States: How Feeling Took Over the Worldという本がある。最近になってたまたま、「フィナンシャル・タイムズ」に掲載されたその書評を読む機会があった。そこに、優れた現状認識が的確にのべられていたので紹介したい。

 「知識という概念自体さえ、利害関係のない客観性の主張を失ってしまっている。我々が生きているのは、事実や情報が発見され共通の善のために共有されるのではない、競争上の優位性をあたえるために経済的価値のある商品として私有化されている「知識経済」なのだ。これは、「合意可能な共通現実」を構築するという科学の伝統的プロジェクトとは正反対のものである」

 今回の騒動で侃々諤々の議論をしている人々の多くは「合意可能な共通現実」の構築という科学の伝統プロジェクトを信じてきた人々なのではないか。専門家たる者、あるいは、いわゆる科学者は、「政治、感情、意見の対立を超えた」存在であり、そのようにみえる場合にのみ信頼できると信じているに違いない。しかし、大量の情報が瞬時に世界中を飛び交っている現在、知識を扱う専門家の評価にしても、その知識自体にしても政治や感情などと区別が判然としなくなっている。筆者のように、知識がすでに客観性ではなく商品性のもとに置かれていると認めざるをえないとみなす者からみると、この新しい現象への対処こそ重要なのではないかと思える。

 この書評では、デイヴィスが、「知識の商品化は公共生活や経済生活が紛争によって定義づけられるようになり、戦争と平和の区別が解消されつつある、より広範な傾向の一部であるとみなしている」と指摘している。これが意味するのは、あらゆる事実が政治化されてしまい、事実や証拠に立脚した議論に基づく意見の形成すら不能ということだ。その結果、感情に頼った判断や議論が幅を利かせる。それゆえに、デイヴィスの本の副題は「感情が世界をどう支配するのか」となっている。

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筆者

塩原俊彦

塩原俊彦(しおばら・としひこ) 高知大学准教授

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士(北海道大学)。元朝日新聞モスクワ特派員。著書に、『ロシアの軍需産業』(岩波書店)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(同)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局)、『ウクライナ・ゲート』(社会評論社)、『ウクライナ2.0』(同)、『官僚の世界史』(同)、『探求・インターネット社会』(丸善)、『ビジネス・エシックス』(講談社)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた』(ポプラ社)、『なぜ官僚は腐敗するのか』(潮出版社)、The Anti-Corruption Polices(Maruzen Planet)など多数。

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