政治家が抱く「カウンター・デモクラシー」への警戒感
2020年10月19日
政治家は、学者や研究者とどんな関係を結びたいのだろう。
コロナ禍で政府は専門家会議をつくった。対策を立てるための質の高い知見を得たかっただけでなく、自分たちの方針決定を権威づける狙いもあったようだ。
人々は、感染症について政治家より専門家の分析や見通しに耳を傾ける。しばしば政治家はその見解を頼りに政策を語る。それどころか、政策決定の責任さえ肩代わりしてもらうかのような場面も少なくなかった。知見から責任まで専門家に丸投げ。
他方、日本学術会議の人事への介入は、6人の学者を邪魔な存在と考えただけではなさそうだ。「行政改革」を掲げて介入をさらに進めようとしているところを見ると、この会議自体を余計な機関だと感じているようでもある。
2015年に起きたことを思い出す。衆議院の憲法審査会で参考人として呼ばれた憲法学者が3人とも安保法制案を「違憲」と断じた。ろうばいした政府・与党からは、「学者の意見を聴いて戦後の行政をしていたら、日本はとんでもないことになっていただろう」とか「人選ミスだ」とかいう声が聞こえた。
政治家は、学者や研究者の助けがほしいのか、ほしくないのか。その意見を聴く気があるのか、ないのか。
自分を権威づけてくれたり、責任を肩代わりしてくれたりする場合は重宝するが、批判や異議を投げかけて、政治の責任を可視化したり権威を相対化したりするような学者は遠ざける、ということだろう。
だとすれば、政治権力者が警戒感をむき出しにするのは、学問の自由というよりもむしろカウンター・デモクラシーに対してだと言えるかもしれない。
カウンター・デモクラシーとは、選挙以外の手段で社会の声を政治に伝える仕組みを表す。仏歴史家、ピエール・ロザンヴァロン氏が提唱して知られるようになった。具体的には、政治に対して発言する市民組織、専門性の高い人たちの団体、新旧のメディア、司法など多岐にわたる仕組みや運動を指し、人々が街頭で繰り広げるデモや集会などもそれに当たる。
日本学術会議のような学者や研究者が政策に関連して発言する組織もその一つと見ることができる。学者や研究者の中から送り出されるメンバーが、政府に対して独立して意見を言う。政権の政策を支持し権威づけるのが目的ではない。
そんな機関に「税金が使われているから」などと言って政府が介入する。選挙で選ばれた政府は国民の意思を体現しているのだから、それに異を唱えかねない人々や組織は退けられて当然といわんばかり。
人種差別問題に取り組もうとしない政府への異議申し立ての運動を、「法と秩序」を脅かしているとして否定する米国のトランプ大統領の振る舞いとも似たところがある。
選挙以外で政治に異議を突きつけることを、不規則で余計な動きという発想だ。
なぜ政権を担う政治家はカウンター・デモクラシーを警戒するのか。病根は、行政府への過度の権限の集中にあると思う。
民主主義制度は立法、行政、司法による三権分立を前提としているが、日々実際に政策を執行する行政府が優位に立ちがちだ。それを牽制するのは、司法、立法府(議会)のだいじな仕事だ。
けれども、立法府はしばしば行政府の僕となる。とりわけ与党議員の多くは、議員ではなく、政府の一員という帰属意識に染まる。立法府が機能不全に陥るのは、野党が小さくて弱いからという以上に、与党議員が行政府に取り込まれているという問題が大きい。
だから今の国会について「1強多弱」というのは正しくない。それは議会での議席数の話にすぎない。行政府に対する国会についていえば、ただの「多弱」である。
こうした現象について、ロザンヴァロン氏は「民主主義が大統領制化している」という。議会や政党が行政府の専有物になり、もはや人々を代表する機関ではなくなっているというわけだ。
最近、邦訳が出た代表的な著書「良き統治」(みすず書房刊)でも、「政党は、もはや社会と政治制度との間の接点、すなわち仲介者を自任していない」「政党は、市民たちの主張を統治者たちに対して代表するよりも、むしろ統治者の主張を市民たちに対して代表する」有り様だと、その衰退ぶりを指摘している。
「大統領」のように強権を握る指導者に人格化され、象徴される行政府が議会を圧倒し、支配し、その結果、政治を相対化し牽制する仕組みが衰退してしまう病理である。
ではなぜ、立法府まで手なずけ、権力をほしいままにしているように見える行政府が、学者や研究者の影響力に強い警戒感を示すのか。
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