マクロン大統領がイスラムを刺激する発言を続けるフランスならではの理由
表現の自由、政教分離の原則、カリカチュア……。日本人にわかりにくい背景を探る
金塚彩乃 弁護士・フランス共和国弁護士
「表現の自由」に絶対的な価値を置くフランス
フランスは「表現の自由」に対して絶対的な価値を置く。表現の自由は他の自由の基礎であると考えられている。
日本でも表現の自由は人権の中でも特に大事な権利であると言われるし、戦前に表現の自由が否定された経験を持つ私たちは、表現の自由の侵害の恐ろしさを知っている。しかし、フランスでは表現の自由への思いが、日本とは比べようもなく強い。理由はこの自由を獲得するまでの歴史にある。
かつて人々の知識や精神世界を支配しようとしていたのはまず教会であり、のちに王権であった。表現の自由とは、何かを表現するだけでなく知の自由であり、知の伝達の自由も含む。それはまた、規制概念に対する批判の自由でもある。
ガリレオが天動説を奉じる教会によって地動説を放棄させられた例はあまりに有名だが、今回の一連のフランスでのテロに対しても、自由な思考とその発表の自由の重要性が何度も強調された。
絶対王政下において、思想家や哲学者は表現の自由をかけて戦った。そして、フランス革命でその自由を勝ち取る。それを高らかに謳うのが1789年の人権宣言である。11条にはこうある。
思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがって、市民は、法律が定める場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由に、話し、書き、印刷することができる。
しかし、この自由はその後の恐怖政治、さらに革命後のナポレオンの治世下で否定され、出版は厳しい検閲の規制のもとに置かれる。1830年の7月革命は、検閲の強化を理由の一つとして勃発し、表現の自由を求めて人々は立ち上がったが、その後も検閲がなくなることはなく、ナポレオン3世の第二帝政において、表現の自由の規制は強化された。
この自由がようやく法律上確立するのは、1881年のことである。その後も自由と規制強化との間でフランスは揺れるが、長年にわたる戦いの中でようやく獲得された表現の自由だけに、いったん壊されたら取り戻すことができなくなるというおびえが、国民の間にはあるのは明らかだ。
特異な地位を占める「カリカチュア」
このようなフランスの表現の自由をめぐる歴史の中で特異な地位を占めるのが、「カリカチュア」である。
カリカチュアとは、ある人物の特徴や性格を表現するため、誇張や歪曲を加えた人物画のこと。その歴史は古く、デフォルメした似顔絵はすでに古代エジプトや古代ギリシャ、あるいは古代ローマにも見られたという。
フランスでは中世からカリカチュアが確認され、その後、王権や教会に対する激しい批判がカリカチュアの手法で行われた。そしてフランス革命前夜、表現は熾烈(しれつ)を極める。国王を豚や王妃をダチョウに見立てたものはまだ可愛いほうで、多くはわいせつ、あるいはスカトロ趣味的なものだ。
当時の人々は、あえて過激な表現を行うことで権力や権威を笑い、王権や聖職者に徹底的に批判して、自由を求めたのだ。フランス革命のころには、なんと1500以上ものカリカチュアが作られていたともいう。
その後も多くのカリカチュアが作られるが、19世紀には表現の自由に対する規制を緩和する流れと裏腹に、カリカチュアが禁止されるという状況も存在した。実際、今回問題となった風刺週刊紙「シャルリー・エブド」の風刺画よりもっと激烈な革命期のカリカチュアには、正直なところ、日本人の感性からは耐え難いようなものが少なくない。

「シャルリー・エブド」が10月28日発売号で1面に掲げた、トルコのエルドアン大統領の風刺画=パリ、疋田多揚撮影
もちろん、こうしたカリカチュアはフランスの表現の中心をなすものではない。しかしそれが知の自由やその伝達の自由をめぐる権力や宗教との戦いを、過激な表現で側面から支えてきたのも確かだ。
私はシャルリー・エブドが掲載するようなカリカチュアが好きだというフランス人を、個人的には知らない。そもそもシャルリー・エブド自体、販売部数が伸びず休刊であった期間も長い。それでもフランス人がシャルリー・エブド襲撃後、「私はシャルリ」と言っていたのは、シャルリー・エブドが好きということよりも、シャルリー・エブドのような風刺が存在するのがフランスの伝統的な言論空間であり、それを守るべきであるということを意味していた。