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「嵐コンサート事件」を報道しないジャーナリズムを問う

最先端の「コンテンツ産業としてのジャーナリズム論」

塩原俊彦 高知大学准教授

 2020年11月、このサイトに、「プラットフォーム独占がもたらすジャーナリズムの衰退:民主主義を死守するために何が必要なのか」という論稿を掲載した。そこで論じたのは、毎日の出来事を事実に即して報道するという、近代化後に誕生したジャーナリズムの「第四の権力」として既存権力(立法・司法・行政)を批判する精神の衰えであった。

 だが、ジャーナリズムがそうしたものからすでに変質し、もはやコンテンツ産業の一部でしかなくなっているとみなせば、ジャーナリズムの衰退を憂える必要はないのかもしれない。むしろ、コンテンツ産業としてのジャーナリズムに無自覚であることが問題なのかもしれないのだ。

 日常生活のなかでは、ジャーナリズムがコンテンツ産業の一翼を担うだけの存在に成り下がったと意識することは難しい。しかし、11月3日に起きた「嵐コンサート事件」へのマスメディアの対応はジャーナリズムの「足腰の衰え」を教えてくれる。そして、コンテンツ産業のなかでの発言権の脆弱性も印象づけている。ゆえに、ここでは「嵐コンサート事件」を紹介し、コンテンツ産業の一部でしかなくなったにもかかわらず、その立場に自覚的でない、日本の「愚かなジャーナリズム」のいまについて論じてみたい。

ジャーナリズムの変質

拡大Shutterstock.com

 まず、ジャーナリズム自体が変質しているのではないかという論点について考えたい。そこで、ある意味で、世界でもっとも最先端の議論を展開しているロシアのジャーナリズム論を紹介しよう。

 2009年刊行のジャーナリズムの教科書(E・P・プロホロフ著『ジャーナリズム論入門』)をみると、ジャーナリズムの機能としてもっとも重視されているのはイデオロギー的機能である。ある階級・集団・組織などがその社会的利害を隠蔽しつつ自らの立場を正当化しようとして形成する信条・観念体系をイデオロギーとみなすソ連時代には、観念体系としての社会主義イデオロギーを喧伝するという役割をジャーナリズムが担っていたのである。もちろん、イデオロギーだけでなく、文化的、教育的、広告的、娯楽的な機能もまたジャーナリズムが担ってきた。具体的には、新聞やテレビといったマスメディア(大量媒体)がこうした機能を実践してきた。

 ソ連の崩壊に伴って、ジャーナリズムが社会主義イデオロギーを喧伝する役割はなくなったが、それでも、ジャーナリズムは人々の意識、理想や願望に深い影響を与えたいという欲求をもち、社会的指向性(一種のイデオロギー)を提示するという機能を担っていると主張している。その意味で、ジャーナリズムにとってイデオロギー的機能を果たすことがもっとも重要であるとする見方はソ連時代もいまも変わっていない。

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筆者

塩原俊彦

塩原俊彦(しおばら・としひこ) 高知大学准教授

1956年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。学術博士(北海道大学)。元朝日新聞モスクワ特派員。著書に、『ロシアの軍需産業』(岩波書店)、『「軍事大国」ロシアの虚実』(同)、『パイプラインの政治経済学』(法政大学出版局)、『ウクライナ・ゲート』(社会評論社)、『ウクライナ2.0』(同)、『官僚の世界史』(同)、『探求・インターネット社会』(丸善)、『ビジネス・エシックス』(講談社)、『民意と政治の断絶はなぜ起きた』(ポプラ社)、『なぜ官僚は腐敗するのか』(潮出版社)、The Anti-Corruption Polices(Maruzen Planet)など多数。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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