最先端の「コンテンツ産業としてのジャーナリズム論」
2020年11月14日
2020年11月、このサイトに、「プラットフォーム独占がもたらすジャーナリズムの衰退:民主主義を死守するために何が必要なのか」という論稿を掲載した。そこで論じたのは、毎日の出来事を事実に即して報道するという、近代化後に誕生したジャーナリズムの「第四の権力」として既存権力(立法・司法・行政)を批判する精神の衰えであった。
だが、ジャーナリズムがそうしたものからすでに変質し、もはやコンテンツ産業の一部でしかなくなっているとみなせば、ジャーナリズムの衰退を憂える必要はないのかもしれない。むしろ、コンテンツ産業としてのジャーナリズムに無自覚であることが問題なのかもしれないのだ。
日常生活のなかでは、ジャーナリズムがコンテンツ産業の一翼を担うだけの存在に成り下がったと意識することは難しい。しかし、11月3日に起きた「嵐コンサート事件」へのマスメディアの対応はジャーナリズムの「足腰の衰え」を教えてくれる。そして、コンテンツ産業のなかでの発言権の脆弱性も印象づけている。ゆえに、ここでは「嵐コンサート事件」を紹介し、コンテンツ産業の一部でしかなくなったにもかかわらず、その立場に自覚的でない、日本の「愚かなジャーナリズム」のいまについて論じてみたい。
まず、ジャーナリズム自体が変質しているのではないかという論点について考えたい。そこで、ある意味で、世界でもっとも最先端の議論を展開しているロシアのジャーナリズム論を紹介しよう。
2009年刊行のジャーナリズムの教科書(E・P・プロホロフ著『ジャーナリズム論入門』)をみると、ジャーナリズムの機能としてもっとも重視されているのはイデオロギー的機能である。ある階級・集団・組織などがその社会的利害を隠蔽しつつ自らの立場を正当化しようとして形成する信条・観念体系をイデオロギーとみなすソ連時代には、観念体系としての社会主義イデオロギーを喧伝するという役割をジャーナリズムが担っていたのである。もちろん、イデオロギーだけでなく、文化的、教育的、広告的、娯楽的な機能もまたジャーナリズムが担ってきた。具体的には、新聞やテレビといったマスメディア(大量媒体)がこうした機能を実践してきた。
ソ連の崩壊に伴って、ジャーナリズムが社会主義イデオロギーを喧伝する役割はなくなったが、それでも、ジャーナリズムは人々の意識、理想や願望に深い影響を与えたいという欲求をもち、社会的指向性(一種のイデオロギー)を提示するという機能を担っていると主張している。その意味で、ジャーナリズムにとってイデオロギー的機能を果たすことがもっとも重要であるとする見方はソ連時代もいまも変わっていない。
ジャーナリズムを国立大学で教えるという形態は社会主義時代のソ連でも、ソ連崩壊後のロシアでも変わっていない。ただ、社会主義イデオロギーを守るという使命が失われて以降、ロシアにおけるジャーナリズムの立脚点は微妙なものとなっている。
国立モスクワ大学ジャーナリズム学部のエレーナ・ヴァルタノワ学部長の「メディアとジャーナリズムの最近の概念について」によると、自由主義の概念(言論の自由という概念)の信奉者にとっては、ジャーナリストは事実を正確に提供する義務を負っているのに対して、社会的責任の概念(ソ連の理論)の支持者にとってはジャーナリストの立場はプロフェッショナリズムを不可欠の条件としていると指摘している。
やや曖昧な表現だが、要するに、前者は資本主義というイデオロギーのもとでのジャーナリズムの機能であり、後者は社会主義イデオロギーのもとでのジャーナリズムがそのイデオロギーを守ることを専門としてきた
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください