石川智也(いしかわ・ともや) ジャーナリスト・朝日新聞デジタル「&」副編集長
1998年、朝日新聞社入社。岐阜総局などを経て社会部でメディアや教育、原発など担当した後、2018年から特別報道部記者、2020年4月から朝日新聞デジタル「&」副編集長。慶応義塾大学SFC研究所上席所員を経て明治大学感染症情報分析センターIDIA客員研究員。著書に「それでも日本人は原発を選んだ」(朝日新聞出版、共著)等。ツイッターは@Ishikawa_Tomoya
芝居『拝啓天皇陛下様 前略総理大臣殿』が問いかける「公と私」
私(わたくし)を滅し、一身を公(おおやけ)に奉ずる――「滅私奉公」という言葉は、今なお日本人の心をうずかせるものがある。
「大公無私」「公門桃李」「奉公守法」といった熟語や故事から浮かぶ清廉な公務員像は、広く公職に就く者だけでなく多くの組織人にとっても振る舞いの理想とされている。それなら、もし「公」の側が法や正義を歪めたとき、「私」はなお「無」でいられるのか。そもそも「公」とはいったい何か。
戦後75年も経っても、この「公=パブリックとは何か」という問いは、この国のアポリアであり続けている。
戦前においては公(語源は大きな宅、つまり朝廷という)は、すなわち国家であり天皇だった。日本人にとって天皇とは何かという問いはかつて、国家への忠誠度をはかる指標でもあった。1945年を境に天皇が象徴と化しても、公の概念の組み替えは行われず、軍組織に典型的だった上意下達と問答無用の世界は官僚機構に温存されたのではないか。たとえばそう仮説を立ててみたとときに、ひとりの人間として公とのはざまに苦しんだ官僚の姿は、どのように浮かび上がるのか――。
劇団「燐光群」が11月13日から東京・高円寺で上演している『拝啓天皇陛下様 前略総理大臣殿』は、こうした重い問いに挑んだ秀作だ。
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