赤木俊夫さんはなぜ死を選んだのか? 加害と被害のはざまに生きた官僚
芝居『拝啓天皇陛下様 前略総理大臣殿』が問いかける「公と私」
石川智也 朝日新聞記者
いまだ精算されていない「滅私」の桎梏
『拝啓~』の原作や映画には、ヤマショウが天覧演習で天皇の顔を拝んで感激する重要なシーンがあるが、歴史学者・加藤陽子(学術会議会員任命を拒否された6人の候補者の一人)の近著『天皇と軍隊の近代史』によれば、白馬にまたがり観兵式に臨む昭和天皇のイメージと、軍人勅諭で説かれた「朕が股肱」(天皇の手足)たれ、というメッセージは、日本の兵士の心性形成に大きく貢献した。
戦後になって天皇は遠景に退いたが、神のごとく組織に君臨し逆らうことのできないトップや上司を「天皇」と表象したり揶揄したりする言い回しが現れ、揚げ句には、左派を自認する人たちが実際の天皇(や上皇)に、「横暴な」政権に対する防波堤や護憲リベラルの守護神としての機能を期待するといった、奇妙な「ねじれ」すら起きている(山本太郎の園遊会での「直訴」は記憶に新しい)。
「上官の命令は天皇陛下の命令」と個を滅して機械の一部品となり、おびただしい数の他者と自己の自由と尊厳と生命を損ねた時代と、私たちはどれほど隔たっているのだろうか。組織の利益最大化のために粉骨砕身する企業戦士と、グルの指示に盲従し無差別殺人を試みた聖戦戦士を生んだ戦後は、相変わらず「兵士の世紀」だったと言うしかない。
「滅私」の桎梏(しっこく)は、私たちの中でいまだ清算されていない。でなければ、どうして「総理の言葉は絶対」とばかりに、その国会答弁との整合性のために、これほどの数の官僚が違法行為に手を染めたのだろうか。
「公務員として命令に服従しただけ」
「組織の中の個」「公と私」について、重要なサンプルを紹介したい。(詳細は「公務員が任務を全うすることによって犯した罪」)
フランスでかつて「パポン裁判」というものがあった。ここで裁かれたモーリス・パポンは、戦前にジロンド県で事務局長のポストに就き、知事をしのぐ権限を握っていた高級官僚だ。
戦後はパリ警視総監などの要職を歴任し、ジスカール=デスタン大統領時代には大臣にまで登りつめた。しかし1980年代、戦時中の対独協力政権(ビシー政府)時代にみずから指揮して1600人以上のユダヤ人を強制収容所に送ったことが発覚。「人道に対する罪」で裁かれ、87歳にして禁錮10年の判決を受けた。
パポンは「公務員として命令に服従しただけだ」という趣旨の弁解をするが、これは、ホロコーストを主導したアドルフ・アイヒマンの被告席での弁明の言葉とまったく同じだ。
第2次大戦の戦犯訴追と処罰に関する基本的コンセプトは、1945年に締結されたロンドン憲章が基になっている。「上官の命令」を理由に人道上の罪は免責されない――。これが、事後法との批判を受けつつも、ナチス幹部を裁いたニュルンベルク裁判の根拠となり、戦後の国際人道法(戦時国際法)を前進させるエポックとなった。
人は組織人である前に市民であり人間であり、ヒューマニズムという普遍的倫理に従うなら、場合によってはみずからの職能を裏切らねばならないときがある。自分は国家への服従(企業への忠誠)を果たしただけだ、だから責任を問われるいわれはない、と弁解することは、組織のヒエラルキーに殉じて価値のヒエラルキーを転倒させ、良心の自由を放棄するに等しい。これは、狭く「人道に対する罪」だけでなく、公務員や会社員がその任務をまっとうすることによって犯した罪全般にあてはまる話だ。
その意味において、公=パブリックとは、国や組織といったローカルなモラルや規範に服すことではあり得ず、むしろ世界市民的な自由な主体である「私」に立ち戻ることに他ならない。ここでは、私たちが一般的に考える「公」の意味は転倒されている。

『拝啓天皇陛下様 前略総理大臣殿』より=古元道広撮影